第140回 クリスマス礼拝「この人を見よ」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第140回 クリスマス礼拝「この人を見よ」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第140回 クリスマス礼拝「この人を見よ」

2019年12月24日

多くのクリスマスの讃美歌の中で今回選んだのは、121番です。
1番は、
馬桶(まぶね)の中に うぶごえあげ 
木工(たくみ)の家に 人となりて
貧しきうれい 生くるなやみ 
つぶさになめし この人を見よ
とあります。

いくつかのポイントがあります。まず、「まぶね」とある点に注目しましょう。馬桶は、もちろん馬小屋の飼い葉桶ですね。
イエスが馬小屋でお生まれになったという話にもとづいたものです。この話は、どうも日本での独自の言い伝えのようです。
イエス様の誕生の状況をミニチュアの降誕セットなどとして売り出していますね。13世紀の初めからこのような降誕セットがあるようですから古い伝統のあるものです。クリスマスの時期になると、教会などにもよく飾ってあります。ヨーロッパの家庭や教会ではクリスマスツリーより一般的なようです。
ドイツのクリスマスマーケットでは、等身大のかなり大きなものが飾ってあったのを思い出しますが、馬小屋ではなく、羊小屋でした。家畜小屋と云った方が正確かもしれません。牛なども寝そべっていたと思います。
ヨーロッパでは、イエスが生まれたのは馬小屋ではなく。牛や羊小屋などの家畜小屋だとされているようです。
それが、何故日本では、馬小屋でお生まれになったと一般的に考えられたのでしょう。はっきりした答えを出すことは出来ません。
一説によれば、聖徳太子説話の影響であろうと云われています。聖徳太子の時代、7世紀の頃に、キリスト教の説話が、日本に影響を与えたことは、十分考えられます。中国では、既に景教と呼ばれるキリスト教の影響を強く受けた宗教が広まっていました。イエスキリストの誕生が、貴種流離譚として聖徳太子伝説に借用されたという説もあります。又、聖徳太子が、遣隋使を派遣するなど、中国の文化摂取に心を寄せていたことはよく知られています。その聖徳太子は「厩戸皇子」(うまやどのみこ)と呼ばれています。これは、聖徳太子が、馬小屋の前で誕生したという説話によるものだそうです。もちろん、日本で馬小屋が家畜小屋としてもっとも一般的だと云うことはあるでしょうが、聖徳太子が、日本の多くの人にとって崇敬を集めた存在であったことも無視出来ません。イエスの行動が、聖徳太子の奇蹟談と重なる部分が多くあることも知られています。(これらについては、明治時代の歴史家として著名な久米邦武の説がよく知られています。)

しかし、イエス誕生の説話の中で、聖徳太子の誕生説話とも、又、釈迦の誕生説話とも異なるのは、イエスが貧しさの中で生まれたと云うことです。聖徳太子は用明天皇の第二皇子です。母は欽明天皇の皇女だと云われています。いずれにしても、釈迦もそうですが、多くの宗教の祖は上層階級の出身だったのです。
私が魅かれる一つの要因ですが、イエスは、貧しい家の子として生まれたのです。まして、家柄といったこととは無縁な存在として生まれたことは注目してよいことだと思います。貧しい庶民の子として生まれたと云ってもいいでしょう。「大工の父」の子です。そして母マリアの階級もはっきりしませんが、上流階級でないことは確かです。

本日読んだ「ルカによる福音書第2章」をお開き下さい。

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

ヨセフは、マリアの月が満ちて出産が迫ったので、宿を探しますが、安心して生むような場所がなかったのです。周囲の人間は、この若い夫婦を向かい入れなかったのです。いかに客で混んでいたとしても妊婦を無視するようなことは出来なかったはずです。きっと胡散臭いと思ったのです。結婚出産と云うことは、多くの場合背景があります。どこの誰の子が子供を生んだとか、親は誰だとか、相手は誰だとか、親戚が祝福するとか、我々の考えではそうですね。自分の結婚を考えても、自分の子供の結婚を考えても、背景がそこにはあります。
しかし、マリアとヨセフの結婚は、孤独な結婚であり、出産です。社会の人はサポートしていないのです。イエスの誕生は、孤独を前提にしているのです。もちろん、旧約聖書で予言された係累があるのですが、それをいったん大きくそれて新約聖書の世界、イエスの誕生があるのです。

マリアにも、不安はあったでしょうが、マリアには直接に「受胎告知」という神の加護があったのです。しかし、ヨセフには、それがありません。この出産でもっとも不安で孤独な状況に置かれたのは、父ヨセフです。処女で子供が生まれるなどと云うことは、誰が信じられるでしょう。苦悩のまっただ中でヨセフは、イエスの誕生の時を迎えたのです。
ヨセフの苦悩に共感するのは、羊飼いも同じです。そして、私たちもそれに同感します。私であったらと考えます。愛する人が子を産む。それが自分の子供ではないようだ。私なら逃げ出すかもしれません。(余談ですが、私の洗礼名は大工のヨセフです。)婚約が決まり、戸籍届のために旅を続けているのです。王の命令による住民登録のためです。それも自分の住んでいる近くの市役所や役場ではないのです。国は、ローマの皇帝によって支配されているのです。マリアとヨセフは被植民地の民と云ってもいいでしょう。生きるために命令を受け止めたのです。愛の巣を作るために命令を受け止めたのです。それは、苦難の旅です。栄光の、喜びの旅ではありません。身重のマリアを引きずりながら、荒れ野を歩むヨセフの苦悩ははかり知れないものがあります。

それでも、可愛い子供が生まれたのです。その子を迎えたのは、あたたかな産着ではありません。にこやかに赤子を取り囲むおじいさん。お婆さんではありません。冷ややかな世間の視線です。その世間の視線を語っているのが「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という聖書の言葉です。
そして、イエスの置かれた状況を的確に象徴しているのが、「飼い葉桶」なのです。あえて言いましょう。誤解を恐れずに云いましょう。イエスは、不潔な「飼い葉桶」でその生きる第一歩を踏み出したのです。動物の食事と同じ目線の場所で生まれたのです。なんと残酷な悲惨とも云うべき誕生でしょう。そこから目をそらしてはならないのです。とは言え、ヨセフも、羊飼いも、もちろん私達もイエスの誕生の状況に不安を感じずにはいられません。

しかし、聖書はその悲惨とも云うべきイエスの誕生の瞬間を見据え、その不安を消すごとく、次のように語り継ぐのです。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

羊飼いは、ヨセフの仲間です。世間の人です。羊の群れを追う庶民です。労働者と云ってもいいでしょう。不安の中で、過ごす我々です。
そこに天使がやってくるのです。強い一言が発せられます。
「恐れるな」
羊飼いは恐れていたのです。自分たちの迷いや不信仰によって、マリアの出産を蔑視し、ヨセフを笑いものにしていたのです。それは私自身でもあります。
断定的な天使の言葉に続く聖書の言葉を聞きましょう。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

神の子であることを告げられたイエスの一生はここから始まるのです。その一生は、罪人と共に十字架にはり付けになるという極めて残酷な結果で終わります。神仏と崇められる他の宗教者にはない一生です。途方もなき、はかりしれない奇蹟の復活という説話を残しながらも、比類なき悲しみを背負ってイエスは生涯を終えます。「飼い葉桶」から「十字架」へ。暗黒とも云うべきか。残酷と云うべきか。

讃美歌は歌います。
「貧しきうれい 生くるなやみ つぶさになめし この人を見よ」(1番)
「死のほかにも むくいられで 十字架のうえに あげられつつ」(3番)

しかし、人は、それを「光の子」と呼ぶのです。救いようのないような一生を、輝ける恩寵の世界と呼ぶのです。「救い」の第一歩が、イエスの誕生によって踏み出されたと言うのです。

「神の子」の誕生です。

子供に対する視線で、「神の子」という表現は、イエスに対してのみ向けられたものではありません。私たちは、「七歳までは神の子」という日本の言葉を知っています。これゆえに、七五三の風習もあるのです。七歳は、自立の時を云います。「神の子」ということは、みんなの子、「社会の子」という意味です。七五三の風習は、我が子の成長に感謝し、その自立への旅立ちを祝福すると同時に、同じ世代の子供たちの幸せを願うべきものです。
戦後社会の混乱期に、親を失い、孤独の苦しみに立たされた子供たちに愛の手を差し伸べ、「エリザベス・サンダースホーム」を開設した沢田美喜さんは、「悲惨なこどもたちこそ神の子」と呼んだそうです。沢田さんが見つめたのは、神の子イエスの存在です。

一週間ほど前、「明日の友」の旅の記事を書くために、沖縄を旅してきました。太平洋戦争における沖縄戦では、多くの子供たちが犠牲になりました。集団自決の場所として知られる読谷のチビチリガマ(自然壕)では、避難していた140名中83名が集団自決し、その内の6割が18歳以下の子供たちでした。「神の子」を死に追いやったのは社会だったのです。首里高校(沖縄第一中学)の同窓会室では、鉄血勤皇隊の遺書も見ました。鉄血勤皇隊は、中学1年、12歳からの少年を含んでいます。一中の動員数は、371名、戦死者は210名です。「お国」が、社会が加害者であったことを忘れるわけにはいきません。(沖縄の記事、詳細は『明日の友』2020年春号に掲載します。御笑覧下さい。)

すこし話が脇道にそれたようですが、イエスの誕生が社会の差別を受けながらのものであり、そのことと真正面から向き合う「見る」という行為が、天使たちの啓示を呼んだことは確かです。

私は、イエスの一生をそのまま受け入れることはまだ出来ません。信仰も堅いものではありません。迷い続けることでしょう。死の直前まで信じられるのかどうか不安です。裏切りの直前で右往左往している自分を感じます。信じてついて行こうとする自分がある一方、もう一つの自分は、不安の只中です。その不安を払拭することは一生出来ないかもしれません。脆き信仰です。
しかし、これだけは言えます。イエスの生涯を見続けることです。見ることは出来ます。固い信仰に立って「よくする」ことは出来ないかもしれません。それでもあえて「よく見る」「よく聞く」存在でありたいと思います。その原点はもちろんクリスマスです。クリスマスの礼拝です。

共に高らかに、讃美歌を歌いたいと思います。
この人を見よ、この人こそ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
(121番4番)

 

2019年12月24日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

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