第142回 源空寺「伊能忠敬」・「幡随院」+ 光秀、雷門地下飲食街/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第142回 源空寺「伊能忠敬」・「幡随院」+ 光秀、雷門地下飲食街/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第142回 源空寺「伊能忠敬」・「幡随院」+ 光秀、雷門地下飲食街

2020年1月25日

1月19日、東向島、東武博物館での講演(「無念の旅紀行―明智光秀を中心に」の前、あまりに見事な冬晴れだったので浅草の源空寺に立ち寄った。
酒井抱一にこんな句がある。

円(まどか)なる春の光や江戸の御忌

この句には前書き「睦月二十五日下谷源空寺の御忌にまかりて」とある。
天下泰平を謳歌する、江戸の春のおだやかな、のびやかな感じがよく出ている句作りだ。睦月、1月25日は浄土宗の開祖法然房源空の忌日。
抱一は、姫路藩主の弟で琳派の画家、俳人としても著名。
大名の息子ながら実に気軽に吉原辺りを出入りしていた人物。大名文芸圏の研究から遊里研究へと身を変えた自分としては、その号「軽挙道人」は忘れられない。
いつか、抱一についても書きたいものだと句や画を眺めているが、何時になるやら。

地下鉄稲荷町駅から、清州橋通りを北へ、上野小学校の先を西にむかうと通りの正面にスカイツリーが見える。この通りが源空寺本堂と墓地を分割し、寺域は関東大震災後5分の1ほどになった。この辺りの記憶を一人の中学生が語っている。
『江戸文人戒名帳』(昭和57年・原書房)の博覧強記の著者上村瑛である。
大正12年の関東大震災後、区画整理にあい、墓地全域の改装工事が行われた。その日はあいにくの雨。掘り起こされた墓地からも水がわいていた。見物人は一人、上村少年。工事人は、学者らしい人と6、7人であった。忠敬の頭蓋骨が日本で一番大きく重いと聞いていた上村少年は興味津々。墓は、高さはせいぜい四尺(120センチ)にも足りない貧弱なものであったそうだ。しかし、その墓の下を掘り起こすと、小さな墓には似合わぬ大名並みの埋葬形式であったというのである。

「しばらくすると、泥の水が真っ赤な色の水に変って来た。子供心に血とばっかり思っていると、朱と言うもので、死体を腐らせない為のものであり、これは大名でないと朱に埋めるということはないのだ。と、学者らしい人の声が聞こえてそれが判った。」と記している。

この赤がインド半島ベンガルからもたらされた紅殻・酸化鉄・弁柄である。火災前の沖縄首里城の色と思えばいい。防腐性が強く、悪魔や病気が侵入するのを防ぐために死体に塗ることも多い。
伊能忠敬は、生前の身分は高くない。しかし死んでからは貴人として遇されたのである。頭蓋骨のことは少年に記憶がないそうだが。肖像画を見る限り忠敬の頭はたしかに大きい。

「東河伊能先生之墓」と刻まれた墓を見ていると、千葉の九十九里浜の潮風が浮かぶ。墓の三面には、儒者佐藤一齊の撰文が刻まれる。九十九里浜の一寒村の浮浪児であったともいう忠敬は、19歳の時、子連れの4歳年上の妻と結婚、婿養子となる。没落寸前の家を再興させ、現在なら200億円以上、30万両の蓄財を果たし、苗字帯刀を許され、50歳の時、家を長子に譲り、自己負担を条件に日本地図の作成を願い出た。
この時、忠敬を推挙し、保証人となったのが、19歳年下の師、天文学者高橋至時(よしとき)である。忠敬は60歳で、至時は41歳で亡くなっている。「東岡高橋君墓」と正面に刻まれ、尾藤二洲の撰文が墓をおおう。
忠敬はその恩義をあつく感じ、師の傍に墓を作ることを願ったのである。

父至時の思いを継ぎ、伊能忠敬を援護したのが、息子の景保。忠敬の実測をもとに、『全日本沿海輿図』を完成させたのは彼である。白い御影石の角柱。「玉岡高橋景保墓」と記されている。景保は、文政11年のシーボルト事件(景保が与えた伊能図をシーボルトが国外に持ち出そうとしたことが事件の発端)で獄に繋がれ、その翌年、獄にあったまま病死した。死後遺体は塩漬けにされ、後日、改めて引き出され、罪状申し渡しの上、斬首された。文化12年、2月の寒い日であった。
ベンガラの赤に染まった日本地図が、伊能忠敬・高橋至時、景保親子の地霊と共に立ちあがる。

隣り合うのは、画聖と呼ばれた谷文晁。酒井抱一と共作の老梅図がいい。(二人とも下谷が住まいだった。)
文晁の貪欲な画風は、伝統的狩野派・土佐派はもちろん、中国、さらに西洋画も取り込み、様式のカオス等とも称される。墓に「本立院殿法眼生誉一如文晃居士」とある。法階のことはまったく知らないが、さすがに、大田蜀山人と並び称された江戸文人ネットワークの中心人物、何とも立派な法名である。共に古文化財の保護に尽力した老中松平定信・江戸コミック界の寵児、戯作者山東京伝・ラテン語をも解した浪速の知性、木村兼葭堂・画家であり文人、又悲劇の藩政改革者渡辺崋山等、文晁は多くの人をひきつけた。

幡随院長兵衛夫妻の墓も並ぶ。2基の延命地蔵が浮き彫りになっている。左の墓石には、「慶安三年庚寅四月十三日善誉道散勇士」と刻む。勇士、長兵衛は、浅草花川戸の人材派遣会社の社長・・。口入屋、町奴のドン。旗本奴、将軍親衛隊の乱暴者水野十郎左衛門と意地を競い、牛込御門内にあった水野の屋敷の風呂場で謀殺されたと言う。講談・浪曲・歌舞伎で潤色された江戸の任侠界のヒーロー。河竹黙阿弥の歌舞伎『極付幡随院長兵衛』、湯殿殺しの場の名せりふも聞こえよう。

「名に負う幕府のお旗本八千石の知行取り、相手に取って不足はねえから、綺麗に命を上げまする。これまで町奴で男を売った長兵衛が命惜しむと言われては、末代までの名折れゆえ、熨斗(のし)を付けて進ぜるから、度胸の据わったこの胸をすっぱりと突かっせえ」
武士への町人の果たし状。江戸、山の手の武家権力に対する浅草庶民の挑戦でもある。

隣に並ぶ、女房はおきん。歌舞伎では、お時。長兵衛の死にも顔色一つ変えぬ気丈な女房ともされるが、長兵衛の死ぬ60日前にすでに死んでいたという説もある。墓は、おきんの父が、先立った娘夫婦供養のために建立したともいう。

 

東武での講演は、はじめて8年程になる、年末・年始で恒例化したもの。去年の暮は、赤穂事件の最大の犠牲者吉良上野介の息子吉良義周の悲劇について語り、今年は、明智光秀について語った。愛宕百韻を中心に文芸共同体としての連歌と光秀、歌舞伎『絵本太功記』(所謂、太十たいじゅう)と『時今也桔梗旗揚』(時は今桔梗の旗揚げ、所謂「馬盥の光秀」ばだらいのみつひで)を中心に、「月さびよ明智が妻のはなしせん」(松尾芭蕉)の句を取り上げ、儒教的主人殺し評価と民衆の受け止めのギャップを話した。最後は天海和尚実は明智光秀、遠山の金さん、坂本龍馬明智末裔説、さらに江戸川乱歩の明智小五郎の小五郎が、光秀が生き延び白山(岐阜県山県郡)で隠棲した荒深小五郎の名からのものかなどと、うわさ話で盛り上がった。

帰りは、地下鉄浅草雷門駅知る人ぞ知るデイープ地下飲食店街、元日劇ミュージックホール売店ママの店。肉豆腐に冷やチビリ。由利徹の色紙を見てもう一杯。

 

2020年1月25日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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