第154回 『ペンテコステを迎えよう―「祈りは空気」』-生活芸術基礎講義メモ/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第154回 『ペンテコステを迎えよう―「祈りは空気」』-生活芸術基礎講義メモ/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第154回 『ペンテコステを迎えよう―「祈りは空気」』-生活芸術基礎講義メモ

2020年5月20日

東日本大震災の時には、「水」のことを思いました。「水」が大きな被害をもたらしたからです。日本語の「水」には、独特の響きがあります。「水玉」「水鏡」「水盤」「水滴」「苔清水」・・・。いずれも美しい感じがします。

「水」はきれいなものという認識が私の心の中にあるからです。日本独特の感覚であるというような片付け方は、好きではありませんが、日本語の多様性がその表現に出ていることは確かです。

「水」への憧憬ともいうべき感情は、文学表現でもおおくの作品を残してきました。中原中也などは真っ先に浮かぶ詩人です。ネットで「水 中原中也」と引けばすぐ出てきますから、ぜひ見てください。

「水のみ俳人」と呼ばれた放浪の詩人 種田山頭火も有名です。山頭火の句に、「飲みたい水が音をたてていた」という句があります。山頭火は、「水」を表現するのに、「香り」「味」の他に、「音」も感じていたのです。

その水が、東日本大震災の時には牙をむきました。
そして、新型コロナの感染症で私たちに牙をむいているのは空気です。

私の経験の中で、今ほど、「空気」や「息」を憎んだことはありません。
マスクをした私から「空気」は遠く離れていくような気がしてなりません。

懐かしいような気さえする「空気」のことを、文芸表現から考えてみたいと思います。
ちなみに、「水」は、古典語で古くから使われていましたが、「空気」は、幕末からです。オランダ語の「Legt リュグト」の訳語です。蘭学の言葉です。

具体的には、「息」と考えましたが、それは、福沢諭吉の『文明論之概略』2・4に、「人に呼吸の働きを生ずるものは空気なり」とあり、空気は、呼吸(呼気、吸気)、息使いとほぼ同じように考えられてきたからです。

古典作品の例を引きましょう。
(息という字を使用した例を考えるとき、便利なのは、日本古典体系の索引もしくは、ジャパンナレッジの索引でしょう。)

 

*「呼吸(いぶ)く気息(イキ)朝霧に似たり」(日本書紀〔720〕雄略即位前)

*「海女(あま)のかづきしに入るは憂きわざなり〈略〉舟の端(はた)をおさへて放ちたるいきなどこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに」(枕草子〔10C終〕三〇六)

*「茶をのみしまひてのあとに、茶碗をはなによせて意気(イキ)がよしとほむるはあやまり也。意気(イキ)といふはのまぬさきの香也」(『京童』〔1658〕四・宇治)

*「うぐひすにほうと息する朝哉〈嵐雪〉」(俳諧・炭俵〔1694〕上)

 

「日本書紀」の息つかいが、朝霧というのは、古代の表現らしい広やかな感じがしますね。
「枕草子」、泳ぎつかれた海女が、船べりにつかまり息継ぎをしています。見ている自分にも、潮のしずくが垂れているようだというのでしょう。涙を海水にたとえるといった意味もあるのかもしれません。さすが清少納言、いきいきとした動きのある描写ですね。

「京童」は、京都のガイドブックです。お茶で香りをかぐのは、飲んだ後ではなく、飲む前だというのでしょう。利休も同じようなことをどこかで言っていたと思います。「意気」は、上方の美意識「粋<すい>」と発展し、江戸の「粋<いき>に通じていくのです。

嵐雪の句もいいですね。早朝でしょうね。鶯が鳴いています。「ほうほけきょ」と自分も口ずさみたくなったのです。「ほう・・」と息をついだ瞬間をとらえているのです。

200例以上、古典作品から探しましたが、「息」という語一つをとっても、時代の流れを感じます。「つれづれ草」などから、身体表現として「息」が使われ、西鶴・近松といった作品では、身体からさらに感情表現に進んでいるように思いました。

明治の作品を拾いたかったのですが、それは何時か機会をあらためてお話ししましょう。

次に掲出するのは、現代の例です。
谷川俊太郎の「風が息をしている」です。映画『誘拐報道』(1982年)の挿入歌です。

 

風が息をしている

 

風が息をしている 息をしている
やわらかな髪に触れ みずうみを波立たせ
風は息をしている

星が息をしている 息をしている
限りなく渦巻いて 声もなくまたたいて
星は息をしている

生きているすべての命
せめぎあい もとめあい
生きてゆくすべての命

人が息をしている 息をしている
苦しみを吐き出して 悲しみを吸いこんで
人は息をしている

 

私たちは、今空気を、風をおそれています。邪な、まさに<風邪>が、私たちの空気になり、息になっています。この状況を文学は、詩はどのように表現すべきなのでしょうか。東日本大震災後にも関連した多くの文学作品が生まれました。コロナ感染症関連の「病と文学」「病と芸術」が、一つの時代を形象化して行くに違いありません。

見えざる空気を表現しようとした一つが、宗教との接近です。もちろん仏教でも、「風大」として、「地・水・火」とともに、世界を構成する四大の一つです。仏教語の空・風の意味など発展的に考えることも出来ます。

 

さて、今月の31日は、ペンテコステです。イエスの復活から50日目です。キリスト復活後、50日目に使徒たちの上に聖霊が下ったというのです。聖霊降臨日、五旬祭とも言います。西欧の多くの国々では祝祭日で、特別の日です。教皇フランシスは、ペンテコスタの日に次のように語りかけました。

祈りはどの時代においても、弟子たちに息を送る「肺」です。祈らなければ、イエスの弟子にはなれません。祈らなければ、キリスト者にはなれません。祈りは空気です。祈りはキリスト者が生きるのに欠かせない肺です(2019年6月19日の一般謁見演説)

 

「祈りは空気です。」教皇の言葉の意味を私たちは、今こそ、考えなければなりません。苦難の時であるから・・・。空気が悪魔の使いであるかのように思える今であるからこそ、空気を祈りの賜物としなければならないのです。

ペンテコステ・・。私たちは「苦しみを吐き出して 悲しみを吸いこんで」祈ります。

 

2020年5月20日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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