第157回 コレラ史跡記その一「越谷安国寺」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第157回 コレラ史跡記その一「越谷安国寺」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第157回 コレラ史跡記その一「越谷安国寺」

2020年7月13日

東武伊勢崎線せんげん台駅(埼玉県越谷市)で下車、日光街道(4号線)を横断、念仏橋通りを進む。曲がりくねった通りの左側に浄土宗安国寺入口の看板。立派な門構えである。門を入るとこれも見事な鐘撞き堂である。

越谷は、徳川家康のお茶屋御殿が、慶長9年に設けられているが、家康ゆかりの地であった。この寺の裏手は昔鬱蒼たる山林でその中に大きな松の木があった。家康が松の木の下で杖を振り寺領を指示したという松だったそうだ。屋根瓦には「葵」の紋がある。

明治26年(1893)建立の安国寺中興行誉宏善上人の墓があり、その台座には、「中興宏善墓 増上寺竟譽(花押)」の文字がある。竟譽(明治37年没、76歳)は、知恩院78世、増上寺75世として、近代浄土宗の基礎を築いた野上雲海のことであろう。日課に称名念仏7万遍にも及んだ人物としてもよく知られている。台座には墓の建立にかかわった750名以上の名前が刻まれている。宏善上人の人望いかばかりかと推察されよう。又、明治初期から衰えかけていた念仏称名のまさに「中興」の存在として行誉宏善の名を、野上雲海とともに確認する必要がある。

お目当ての、名号塔は、自然石で高さは170センチほど、台座に大きく「萬人講」(越谷では<まんにんこう>と読む)とあり、中央に「南無阿弥陀仏」の名号。右に「大龍山」(山号)、左に「行誉」と花押。

注目は、背面の文字。年代は「安政六年十月」。建立主の「行誉宏善」「石工春日部宮仙蔵」の名は見て取れるが、ぎっしり刻まれた和文と歌は苔むしており判読は不可能だ。よほどの辛抱強い作業がなければ読み取ることはできないとあきらめた。

帰りがけ、住職に一言挨拶せねばならないと思いお訪ねすると、突然の訪問にも関わらず、ご親切に町田唯真住職より越谷市郷土研究会の顧問をされている加藤幸一氏を紹介していただいた。そして午後より、加藤氏が偶然調査で寺にいらっしゃるとのこと。

名号塔の背面の文字を、苔を振り払い、愛おしむように加藤氏から一字一字教えてもらった。句読点など付し適宜読みやすく直しその全文をかかげる。(『越谷金石資料集』名号25番所収)

 

去年の七月ばかりいとあやしき疾出来、初て世中なべて病みののしり、医むかへんひまだにあらで、あはれにもはかなくうせにし人よ、いくぞばくか、かぞへも尽ぬ。それが為にとて、八月廿七日より十月望の日までこころある限り、此精舎につどひ 種々の手向して、昼夜わかず弥陀仏の御名唱へて、懇にとぶらひつる。 此ひとびとには露もやみたるにはあらざりき、せらるはおのが志しの為にとて物せしにはあらねど、其功徳の自にむくひきぬる故にやあらんと、いともたふとく覚えて、此度碑をつくり、尚もとてなん。かヽればいよいよ此世は万の禍事をのがれ、さきくながらへて、後の世は彼人々とともに、一つ蓮の台にのり、常に月の御面をあふがん事、疑ふべくもあらずなん。其所由しるさまざま言葉の拙きをかへりみず、やがて筆をとる。

人の身はあさきねざし芝なれや しものおくにもかれぬばかりぞ

みつせ川わたりわづらふ人しあらば 手火をしとりてしるべをはせん

安政六年十月  行誉宏善   石工:春日部宮仙蔵

 

 

「いとあやしき疾(やまい)」とは、所謂<安政コレラ>の蔓延である。安政5年(1858年)5月、アメリカ艦隊ミシシッピー号が長崎に入港、その乗組員からコレラ感染者が出た。6月の時点で長崎では30人が罹患、6月下旬には東海道、7月には江戸に侵入した。翌年安政6年には、7月下旬から前年に引き続いて流行したが、9月には大規模な流行はやんだ。(山本俊一『日本コレラ史』1982)江戸での死者は、諸説あるが、『日本災異志』によれば、7月25日からの2月間で寺院扱いの死者数は26万8千人に及んだ。「去年の七月」とはそのことを云うのである。

頼るべき医者の手立てもなく、むなしく多くの人が亡くなった。越谷でのコレラの死者の報告は未見であるが、おそらく日光街道筋での恐怖心は相当であったに違いない。

人々はこの寺に集まり、ほぼ70日余り念仏を唱えた。そして、ほぼ終息の頃まで念仏は続いたのである。鎮魂への思いにこめられた、死者へのやさしい眼差しがあることは注意したい。「後の世は彼人々とともに、一つ蓮の台にのり、常に月の御面をあふがん事、疑ふべくもあらずなん。」という言葉には、近代における所謂<伝染差別>とも云うべきものは感じられない。死者と今生きる者とが一つの世界になる念仏世界が語られていると云ってもいい。「人の身のあさきねざし」と無常を感じるとともに、死出の道に三途の川を渡る人への導きもしようというのである。

帰路、新方川にかかる念仏橋を渡る。宏善上人がこの橋を通りながらよく念仏を唱えていた由縁の名だそうだ。心に染み入るような上人の静かな念仏が聞こえてくるような気がした。

コレラは、安政5年(1858)、続いて文久2年(1868)、明治12年(1879)、明治19年(1886年)、明治28年(1895)と続き、ほぼ終息を見たのは1920年になってからである。この間、大きな被害をもたらすとともに、日本の各地にコレラ禍による史跡を残している。史跡は、その歴史を語り継ぐとともに次世代への指針でもある。

例えば、越谷の名号塔と同じ時期に作られた、宮城県石巻市虻田の東雲寺の「狐狼痢塔」・明治12年建立の米沢市赤芝町・羽黒神社の虎列刺菩薩碑・文久二年建立の神奈川県茅ケ崎市行谷曹洞宗宝蔵寺の狐狼痢除百万遍供養塔などがある。実地に調査に出向きリポートをまとめたいと思ったが、どうも遠出はまだまだままならない。地方史の記事などをまとめながら、このブログでもコレラ史跡の紹介を徐々にしていくつもりだ。

2020年7月13日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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