第166回 コレラ史跡記その3「五箇山コレラ病死者の石碑」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第166回 コレラ史跡記その3「五箇山コレラ病死者の石碑」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第166回 コレラ史跡記その3「五箇山コレラ病死者の石碑」

2020年11月6日

早朝5時半に家を出た。

目的は、五箇山の「コレラ病死者の石碑」。住所は南砺市田向大平だが、五箇山と云った方が通りがいい。新高岡から、白川行きの高速バスが便利。以前は、高岡から城端まで城端線。城端で五箇山行きのバスに乗った。今回は、高速バスのおかげで午前中に五箇山に着いた。

ガイドの方との待ち合わせ時間は午後3時。しばらく時間があったので、南砺市立平図書館へ行く。五箇山を中心とする郷土資料の収集に定評のあるところだ。

全国に、江戸時代末期から明治期前に至るまで、コレラに関する「慰霊」「顕彰」「祈願」「記念」などを目的とした石碑史料は、57基ほどになるそうだ。(藤本一雄『地域安全学会梗概集 No.47』 2020)

この中で、流刑者が先導しコレラ患者の慰霊の碑を作った例はない。

流刑者の名前は、篠田余太夫。加賀藩士である。加賀藩の文書などを整理し五箇山の歴史を記した『日向の里』(佐渡進一著 平成3年 私家版 誠文社)掲載の「田向村流刑人一覧」によれば、流刑となったのは、文政13年(1830)9月20日、赦免されたのは安政5年(1858年)11月10日である。多くの流刑者を受け入れた五箇山でも28年間の流刑は最長の期間だ。

身分は、肩書に注記して「定番御徒」とある。身分の安定した加賀藩士であった。一覧によれば「与力」「料理人」など肩書のある武士が多い。おそらく彼は、盗みなどではなく<政治犯>としての流刑であろう。

バス停のある上梨集落から、庄川を渡り右岸、田向地区へ。今は簡単に渡れるがこの激流が左岸の上梨地区との隔絶をもたらしたのだ。右手の小高い傾斜地に流人小屋がある。小屋が村人の生活と近い空間にあったのがわかる。

上ると住吉神社の境内に「天保義民之碑」があった。天保4年(1833)から同9年、加賀藩における過酷な税の徴収への農民一揆事件の顛末を記す。天保9年減免越訴に立ち上がった農民は金沢で獄死、他113名は家族共々9年間五箇山に流刑された。勝海舟はこの一揆を義挙と呼び共感しこの題字を記している。農民たちの苦難の歴史であった、又一方でこの里の流人への暖かさがあったことも事実だ。(金沢市駅近くの公園にも同様の碑がある

五箇山でもっとも古い国指定文化財羽馬家を通り河岸へ降りる。庄川の支流湯谷川小水力発電所の裏手に碑があった。橋のかかるまでは猪谷部落への往来道の傍の位置にあったそうだ。

天保7年(1836)から同8年にかけて、30戸ばかりのこの集落において120名ほどがコレラの犠牲者になった。その慰霊建立に村人を善導、献身したのが篠田余太夫である。

石碑正面には、「南無阿弥陀仏」の名号、左の側面は苔むしているが、「天保八年、疫病にて死者百二十余人あり、この菩提を弔うため石碑を建立する」旨が記されている。そして右の側面には、「嘉永元年四月、施主篠田余太夫、せわ人作助」と刻銘がある。せわ人作助は、もとよりこの村の人たちだ。

嘉永2年の文書「篠田余太夫殿御小屋御修覆図リ書帳」(前掲書)に、村人たちからは篠田余太夫の小屋を修復したいとの願書が提出されている。流人小屋を修復したいとの村人の思いに彼の人柄もしのばれよう。

余太夫が赦免されたのは、この碑を建立した嘉永元年(1848)から10年後だ。天保の義民と呼ばれる人たちと共にコレラと戦っていたであろうことも忘れてはなるまい。

ガイドの婦人が、持参の線香を手向けた。村人たちは今に至るまで鎮魂への思いを忘れることはない。立ち上る煙が紅葉に映える山並みに消えた。

何故、流人が、率先してこの碑を作ったのであろう。流人と云って特別視すること自体が問題なのかもしれない。流人は共同体の一員としての役割を明確に有していたともいえよう。余太夫がおそらく政治犯であったことも関連するかもしれない。加賀藩の政治方針に反発していたとしたら、村人の尊敬を集めるような正義心を有していたに違いない。差別を超える寛容さが、村人の中にあったのだ。共に生きる厳しい自然環境が慰霊という行為を生んだのだ。

以前、私は、金沢の遊女であった「お小夜」という女性が、流人となりこの五箇山に流され、寺子屋で子供たちに手習いを教え、村の男と恋に陥り池に身を投げたという伝承が、今も人々の間で語り継がれ民謡に歌われていることを、「流人遊女「さよ」―能登門前・加賀五箇山」(『江戸遊女紀聞―売女とは呼ばせない』ゆまに書房所収)に記したことがある。

その背景にあったのは、この地の持つ宗教共同体としてのやさしさである。五箇山の各所に見られる念仏の教えが、この「コレラ病死者の石碑」にも通じているのではないだろうか。人為的にも自然的にも厳しい環境であるがゆえに生まれるやさしさがあるような気がしてならない。身を寄せ合うことの大切さをこの石碑は教えているのだ。

国道筋の宿の玄関に立つと、宿のおかみさんが、私の額に体温計を当てた。
「36度4分です。お上がりください。」
ちょっと意地悪く、
「ここで37度以上だったらどうするんですか。最終バスも出て・・」
と聞くと、ちょっと困ったような顔をして
「帰ってもらいますよ。今までそんな人はいませんがね」と。

山菜満載の料理に地酒。赤カブの漬物と硬い湯豆腐が絶品。酔い覚ましに外に出ると十六夜の月が出ていた。

翌朝は雨。朝霧が立ち上がり山肌の紅葉が薄い白絹をまとっている。

城端駅までバス。城端線の福野で下車。中世荘園の中心であった越中一之宮高瀬神社のすぐそばにある埋蔵文化センターを訪ねた。「文化財に見る南砺の疫病 先人は疫病にどのように向かってきたのか―感染症の歴史と遺産―」展(9月2日から11月30日)を見るためだ。富山県は明治・大正と続くコレラ禍で日本でもっとも多くの死者を出した地域である。

この続きは、来年の『東京人』3月号(2月発売)に「コレラ禍歴史散歩」(仮題)として書くつもりだ。

2020年11月6日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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