夕礼拝「主イエスの大いなる期待と人間の自由」/学部長ブログ - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

夕礼拝「主イエスの大いなる期待と人間の自由」/学部長ブログ - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

学部長ブログ

夕礼拝「主イエスの大いなる期待と人間の自由」

2025年3月13日

3月8日土曜日、自由学園では満開の梅が香る中、第103回卒業式が行われ、2年課程2年生2名、4年課程4年生12名の学生が自由学園を巣立っていきました。高等部から入学した人でも7年、長い人では幼稚園入園以来、17年、19年の生活となりました。この日はそれぞれの歩みに思いをはせ、希望をもって送り出す1日となりました。

この卒業式を前日に控えた3月7日、卒業する学生たちと、その成長を見守ってきた中高及び大学部の教職員が高等部講堂(旧女子部講堂)に集まり、夕礼拝のひと時を持ちました。かつてそこで毎朝の礼拝を行っていた女子学生たちは、久しぶりに足を踏み入れた講堂で、「懐かしい!」と歓声を上げていました。会場には農芸グループが育てた美しい花が生けられ、卒業論文で自由学園の美術教育の意義を研究し、自らも制作を行った学生の作品「復活」も飾られました。

礼拝のメッセージは私が担当し、卒業生への応援の思いを込めて「人間の自由と主イエスの大いなる期待」というテーマでお話しさせていただきました。(以下に掲載します。)

礼拝に続いて、卒業生を代表する3名の学生の「卒業に際して」の思いを聞きました。中学入学以来8年、小学校入学以来16年、幼稚園入学以来19年という人たちの言葉には、その一言一言に深い思いが込められていました。それぞれの成長が感じられるその言葉に、その人らしい人間的な成熟が感じられました。

私の話は長く込み入った内容になりましたが、私にとっては、このような話を真正面から投げかけられる一人一人であることを、うれしく思うひとときでもありました。また学生・教職員が、卒業の日を迎えることができることへのさまざまな感謝の思いを共にする温かいひとときでした。

 

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「人間の自由と主イエスの大いなる期待」

 讃美歌:447番 1番、2番

・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章1-11節

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

この出来事は4つの福音書のうちヨハネ以外の3つに書かれており、とても有名な箇所ですが、私は以前はこの箇所を、イエス様が受けた試練の物語として何となく読んでいました。しかしいろいろと考えていくと、ここは私たちの生き方や自由の問題に大変深くかかわっている箇所であると思うようになりました。

この箇所は、聖書の前後を合わせて読むと、3つのどの福音書でもイエス様が洗礼を受け神の子としての宣言を受けた箇所と、ガリラヤでの伝道を始める箇所との間に挟まれておかれていることがわかります。

神の子イエスが、社会的活動を始める前に「誘惑」を受け、それを全て退けて宣教活動に入られたということです。

一体イエス様はここで何を退けたのか、またなぜ、どのような思いで退けたのか。自由学園を離れ、新しい社会での歩みを始めるみなさんとこの問題を一緒に考えたいと思います。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるために」という言葉でこの箇所は始まります。しかし続いて、悪魔からの誘惑は、「霊に導かれて」のことであったとあります。霊とは聖霊、つまり神の意志の働きによって試みを受けたということになります。悪魔の誘惑とは日々の生活の中で私たちも直面する誘惑に重なるものではないかと思います。しかもこの誘惑は、荒れ野で40日間断食し、空腹の中で、人間的な極限状況の中で甘い誘惑として襲い掛かってきています。

この40という数字ですが、これは、旧約聖書の出エジプト記の出来事を背景としています。福音書の筆者は、読者がこの荒れ野の40年の物語を共有していることを前提として語っています。

奴隷状態にあったイスラエルの民がエジプトを脱し、火の柱、雲の柱に導かれつつ荒れ野で過ごした40年を示す40です。この荒れ野の40年の中で、モーセは神から十戒を授かり、イスラエルの民が神の民となります。

しかしこの40年は苦難の40年でした。奴隷状態だったエジプトの支配を脱したイスラエルの民は、自由を目指して志をもって歩みだしたのですが、食べるものにも困る荒れ野の40年に及ぶ生活の中で、こんなに大変な暮らしになるなら、たとえ奴隷であっても肉鍋を食べることができたエジプトでの生活のほうがましだったという不満を漏らします。また神は本当に私たちと共におられるのだろうかという疑いも沸き起ります。目に見えない神に代えて、崇拝するための金の子牛の像をつくったことも記されています。この40年間に、試練に遭って人間のさまざまな弱さが噴出し、神への信仰が問われ、鍛えられていきます。

皆さんもご存じのことと思いますが、齋藤君が卒業研究で扱った明日館に掲げられている大きな壁画はこの40年の一場面をとらえたもので、真の自由を目指す行進の姿を描いています。

創立10周年の時に生徒たちによって描かれた絵ですが、羽仁吉一先生は「自由学園の出エジプトの行進は、まだ10年だ。ここから30年の困難が続くが、神の導きに従い、火の柱、雲の柱を見上げて自由を目指して進もう」と書かれています。また吉一先生は草創期の自由学園の歩みにおいても、「自由だと思って入学したがまったく不自由学園だ」と不満を言って去っていった人がいたことも記しておられます。私たちが今も目指す真の自由に向かう歩みは、その頃から容易な道ではなかったことが分かります。

マタイによる福音書に戻りますが、イエス様は荒れ野で40日間断食した後に、悪魔から3つの誘惑を受けます。悪魔はイエス様を3回試み、それに対してイエス様が3回答えています。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

「神の子ならここから飛び降りたらどうだ。神の子なら天使がお前を支えるから死ぬことはないだろう」

「もしひれ伏して私を拝むなら、全ての国々をお前に与えよう」

どれもが人間の弱さに付け入る誘惑といえます。しかしイエス様はこのような3つの試みを全て退けます。

第一の誘惑に対してイエス様がお答えになった「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、旧約聖書申命記8章の言葉です。

「主が導かれた荒れ野の40年の旅を思い起こしなさい。あなたを苦しめ飢えさせたのは、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。

続く悪魔の試みにはそれぞれ「あなたの神である主を試してはならない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお答えになっています。

イエス様は神の子としてどんなときにも誘惑に負けず、心から神様を信頼する姿勢を貫かれていますが、私たち人間はそう簡単にはいかず、どんなときにも神様の愛を疑わず、神様を試すことなく、神様の愛に心から信頼して歩むことは非常に難しいことです。肉鍋の魅力にも誘われます。ですので誘惑をきっぱりと退け、神への信仰を明らかにしたこのイエス様の行為は、人間の域を超えており、私にとっては興味深い物語ではあっても、実感をもって心に迫ってくるものではありませんでした。

しかしこの物語を通じ、聖書が何を語っているかを改めて考えることになるきっかけがありました。皆さんの中にも読んだ方はいるかと思いますが、ロシアの作家ドストエフスキーが神と人間という根本問題に取り組んだ『カラマーゾフの兄弟』という作品があります。この物語の中でこの聖書箇所の斬新な解釈が示されていました。

登場人物の一人イワンが、弟であり物語の主人公の見習い修道士アリョーシャに、自分が作った創作物語を紹介します。この物語は「大審問官」と名付けられ、『カラマーゾフの兄弟』の中でもとても有名な場面です。

舞台は16世紀のスペイン・セビリアです。当時この地で異端審問により多くの人が火あぶりで処刑されてました。

イワンの創作物語の主人公大審問官は、この異端裁判を取り仕切る教会権力を象徴するような人物です。

民衆の集まる広場で火あぶりの刑によって多くの異端者が処刑されているその町に、突如イエス・キリストが再臨します。キリストは人々に気付かれないように、そっと姿をあらわすのですが、人々はそれがキリストであることを見抜いてしまいます。そして「あのお方に違いない」とキリストのもとに駆け寄り、ひざまずいて祝福を求め、熱狂的にその後に従ってゆきます。するとちょうどその現場に、護衛たちを従えた大審問官が通りかかります。

大審問官は死んでいた娘が生き返る奇跡を目にして、その男がキリストであることに気付きます。彼は90歳にもなろうかという老人でしたが、眼光は鋭く、民衆が無言で見守る中、護衛に命じてキリストを捕らえさせます。熱狂していた民衆は大審問官の絶大な権力の威圧のもとに沈黙し、キリストは何の抵抗をすることもなく捕えられます。

そして場面は変わり、大審問官がキリストを監禁した牢屋を訪れ、議論を吹きかけるシーンになります。

大審問官はキリストに対し、「お前はキリストなのか。なぜ今さら我々の邪魔をしにきたのだ」と切り出します。キリストは無言のまま答えません。実はキリストはこの物語の中で最後まで一言も発することがありません。

ここで大審問官は、先ほどの聖書の荒れ野での3つの誘惑の出来事を持ち出し、イエスを攻め立てます。ここがこの物語の山場です。大審問官の主張は以下のようなものです。

・・・荒れ野において、悪魔はまず「石をパンに変えよ」とおまえを試みた。「パン」とは、人間に一時的な満足と安心を与える物質的な幸福である。つまり悪魔は「人々は物質的な幸福を望んでいる。おまえは人々に物質的な幸福を与える存在になれ。そうすれば人々はおまえについてくるだろう」と誘ったのだ。しかしおまえは「人はパンだけで生きるのではない」と言って、人々を物質的幸福によって支配することを退けた。人々の幸福の道は、これによって閉ざされたのだ。

・・・悪魔の第二の試みは「わたしを拝むなら、世界の全ての国々の一切の権力を与えよう」というものであるが、これは「人々は自ら自分自身の自由を放棄し、絶対的な権力によって支配されることを望んでいる。おまえは権力によって人々を支配せよ」という誘惑である。しかしおまえは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」といってこの誘惑も退けた。

・・・最後の「ここから飛び降りたらどうだ」という悪魔の三つ目の試みは、「神の奇跡によって人々を支配せよ」という誘惑だった。人間は神よりもむしろ奇跡を求めているのだ。ところがおまえはここでも人間を奇跡の奴隷にすることは望まず、人間の自由な信仰、自由な愛を望んだため、「神を試してはならない」といって、この誘惑を退けてしまう。

・・・お前は3つの誘惑を全て退けた。しかしその時お前はあわれな弱い人間たちの幸福を退けたのだ。お前がそれらを受け入れて、権力をかざし、お前の手でパンを人間に与えていれば、人間はこの世の幸福の前に喜んでひざまずき、喜んでお前に従っただろう。

・・・しかしお前はパンも、神秘も、権力も拒んだ。その代わりにお前は、人間に自由という迷惑なしろものを与えた。そして人間が、何も見返りも求めずに、わけのわからない「自由な心からの信仰」によってお前に従い、「自由な愛」によってお前を愛することを願ったのだ。

・・・なぜならお前はパンの魅力によって人々を縛り、お前を愛するようにしむけることを願わなかったからだ。人間がパンや権力、奇跡などの何物にも左右されず、一人一人の良心に従って、自由な意志に基づいて善悪を判断し、行動することを願ったからである。そしてそのような自由な心の状態から湧き出る自由な信仰によって神を愛することを望んでいたからだ。

・・・しかし人間はお前の願うように強い存在ではない。お前がそれほどに大事にした自由などというものは人間にとっては苦しみをもたらす重荷なのだ。善悪を自分で判断することは人間にとっては苦痛なのだ。圧倒的な神秘と権威にひれ伏すことこそ人間の心の底の願いなのだ。人間は幸福や安心と引き換えに早く自由を手放したいと願っているのだ。

・・・だから我々が、人間の自由な愛に期待したお前の教えを修正し、不幸に陥った人間に、その自由と引き替えに、奇跡と神秘と権力をもって人間を支配し、意気地の無い動物にふさわしい幸福を与えてやることにしたのだ。これは人間の自由を奪い、精神的に奴隷にする悪魔の業なのだが、民衆がそれを望んでいるのだ。人々は弱き羊の群れのように我々に従い、とんでもない苦しみをもたらした自由を手放すことができたことを心から安堵し喜んでいるのだ。

・・・明日はお前を一番たちの悪い異教徒として焼き殺してやろう。今日お前の足にキスをした民衆が、明日は私がちょっと手招きしただけで、我先にとお前を焼く火の中に炭を投げ込むことだろう。

終始無言のキリストの前で大審問官はこのように一方的にまくしたてますが、キリストは沈黙を守るばかりでした。しかし、突然、無言のまま、老いた大審問官に近づくと、そのくちびるに静かにキスをします。それがキリストの答えの全てでした。老人はぎくりとし、戸口に歩み寄り、さっと戸を開け放しながら言います。

「出て行け、そしてもう二度と来るな・・・絶対に!」

キリストは闇の中に静かに歩み去ります。

かなりの意訳になりますがこのような物語です。権力を築き上げた教会が、再びこの世界に現れたキリストを異端として糾弾し処刑しようとするこの物語を初めて読んだときに、私は大きな衝撃を受けました。

聖書の荒れ野の誘惑には「自由」という言葉は出てきませんが、ドストエフスキーはイエス様が誘惑を退けたこの場面を、悪魔と戦い人間の自由を守るキリストのメッセージとしてとらえました。キリストはこの後、人間の自由に対する大きな期待をもって、宣教活動に向かいます。

「人間は自由を手放したいと思っている。人間は自由にふさわしくない愚かで弱い存在である」という大審問官の人間観と、これと戦ったキリストの、人間への大きな期待・信頼は、共に自分自身に向けられたものとして強く迫ってきました。

キリストは人間の弱さをご存知です。しかしそれでもなお、その人間に自由を与え、その自由の行使にこそ人格を持った人間らしさ、ロボットではない人間の尊さが表れると、愛と期待をもって人間を信頼しました。

大審問官がキリストを糾弾するこの物語を通じて、私は逆説的に、キリストがどれほど人間の自由を尊重し、どれほど人間を信じ期待したかという、その期待と愛の大きさを感じました。この期待と愛は私たち一人一人に向けられているものです。

羽仁もと子先生も、人間というものは、神の「大いなる期待の中に」自由な意志の力を与えられているとお書きになっています。

そして、自分自身以外には神も他人もどうすることもできない人間の自由。これが神からの最高の賜物である。自由をいかに使って生きるかは教育の在り方によって決まる。自分を教育していく最要最高最後のものは自分自身の他にない、と書かれています。

皆さんの自由は、霊によって導かれた自由学園での7年、8年、長い人では17年、19年の生活の中で育まれ鍛えられてきました。皆さんは自由学園での一日一日の生活を通じて、与えられた自由を愛をもって働かせてきました。もしも自由学園に入学することがなかったら、自由についてのとらえ方が違ったものになっていた方もおられるのではないでしょうか。 

皆さんは自由学園での学びを終える時を迎えましたが、これからも変わることなく、神様に知られ、神様によって愛された一人一人です。そして私たちの人生の同伴者であるイエス様が示してくださったように、「大いなる期待の中に」尊い自由を与えられた一人一人です。火の柱、雲の柱の導きを信じ、勇気をもって真理を求めてその自由を発揮し、一日一日を心豊かに歩んで行かれることをお祈りします。

讃美歌447番3番、4番を歌います。

お祈り

主なる神様、今日ここに、自由学園を卒業する方々と夕礼拝のひと時を共にすることができましたことを心から感謝いたします。神様が一人一人のこれまでの道を守りお支えくださったことに心より感謝いたします。私たちは弱いものですが、どんなときにもあなたによって愛され、あなたが導いてくださることを信じます。どうぞ卒業する一人一人のこれからの歩みもあなたが共にいてお守りください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

 

会場を飾った農芸グループが育てた「新天地」のお花

 

齋藤彪さん、卒業研究・制作「復活」2025

 

明日館壁画1931

 

文・写真:髙橋 和也(最高学部長)

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