8月初め清水多嘉示美術館を原村に訪ねました。

羽仁吉一先生のデスマスクをとり、羽仁夫妻の墓碑も設計した自由学園とゆかりの深い彫刻家です。

清水先生の作品は学園長室にも飾られており、学園長のときには毎日共に過ごした私にとって馴染み深いものでした。
まず美術館入口までのアプローチ、木々に囲まれ展示された数々の作品の素晴らしさに目を奪われました。
中でも「みどりのリズム」(1951 年)、「伸び行く」(1957)、「躍動」(1978)の 3 点は、学園長室のものと同じく、生き生きと伸びやかに身体を使う少女•女性をモチーフにしたもので、いのちの輝きが伝わってきました。
清水先生が自由学園美術講師に就任するのは1950年。2人の少女が手をとり踊る「みどりのリズム」の制作は その翌年1951 年です。

この1951年には、清水先生は斉藤秀雄先生と共に婦人之友の座談会(1951年4月号「芸術と教育」)にも参加され、以下のような教育観を語っています。講義ノートの言葉と合わせ、羽仁夫妻が信頼を寄せた由縁が伝わってくる内容です。
「芸術教育によって、自然を本当に理解することが出来る。芸術を深めてゆくことによって、人間もまた深められる。」(婦人之友1951年4月号「芸術と教育」)
「芸術教育は、美を認識させ魂を呼び覚ませ、生活を豊かにさせる方向にもってゆきたい。造形芸術が分析と総合の仕事であるということは、あらゆる角度から対象の全体を識ろうとする態度の、絶えざる訓練で、最も教育の中心として考えてゆきたい。」(婦人之友1951年4月号「芸術と教育」)
「美術教育はすなわち人間教育である。人間教育で最も大切なことは、各個人の個性を尊重して、そ の進展(成長)に努めること。そこに創造(独創)が生れてくる。 このことが人間にとって最も幸福なことであり、生甲斐のあることである。」(講義ノート、『太陽への道』より )
美術館内には全生涯にわたる絵画と彫刻作品が並び、作品の全貌を見渡すことができ見応えがありました。


清水多嘉示先生は 1897 年、長野県諏訪郡原村生まれ。絵画から出発し、1920 年二科展初入選。23 年に渡仏しブルデルの作品に衝撃を受け、ブルデルのもとで彫刻家としての研鑽に励みます。28 年に帰国後、院展、国展、文展等に出品。戦後は日展を中心に活躍。芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞等を受賞。国際造形芸術連盟執行委員、国際彫刻コンクール審査員、日本芸術院会員等を歴任しています。
驚いたことは東京での住居兼アトリエが私が住んでいる杉並区善福寺にあり、桃井第四小学校に立つ二宮金次郎像が清水多嘉示作だったということでした。この小学校は選挙の投票所のため金次郎像はよく目にしていましたが、清水先生のものと知りませんでした。
しかもこの金次郎像、あるとき本を持つ手が切断されるという受難にあっています。歩き読書は危険という苦情への対応だったようですが、現在腕は修復されています。
1955 年 10 月 26 日、羽仁吉一先生ご逝去のその日、清水先生は吉一先生のデスマスクをとります。そしてその直後の婦人之友1956 年 1 月号に、いち早く清水先生の「純粋と真実」と題する追悼文が掲載されています。
彫刻の師であるブルデルと吉一先生を並べて評価していることに、清水先生と吉一先生の深いの精神的な繋がりが感じられました。以下は追悼文の全文です。
「純粋と真実」 清水多嘉示
造型芸術は究極において、最も素朴な最も純粋なものでなければならない。即ちそれは人間性にもとづいたものでなければならないと信じる私は、土曜日の美術の日の食堂などで、学園の生徒たちに折にふれてこのことを話す。ひょっとしたら古いといわれるようなこの考えを、吉一先生はいつも頷きつつ聞いて下さった。私の想像によれば、先生は教育は人間をつくるもの、その個々の新鮮な生命を育てるものと考えておられ、その立場から私の考えにも、深い理解と同情を寄せられたのであろう。
最初に先生にお会いした時、私は「この方こそ大きな方だ、とおとい方だ、ほんとうの意味で出来た方だ。」という印象を受けた。それ以来、先生の前に出ると、自分の親か師の前に出たような温味とうれしさと、同時にまた自分の至らなさを感じて、何かこわいような気持だった。私がただ一つ自分の取得だと思うのは、何か大きなことに当る場合、子供の心になりきれることである。もっとも、それはいつものことではないのだけれど、先生は、こうした私を見て下さった懐かしい方のひとりである。二宮や南沢のお宅で、もと子先生をも交えてお話する時は、また外にはない美しい世界を見る思いがした。
去る十月二十六日、先生の逝去されたその夜、私は日展の審査場から駆けつけて、デスマスクをお取りした。そうして、いつかは彫刻にもと思っていた、あの立派な面影をそのままに、安らかに眠っておられるその枕辺にも坐し、 一と月後には、雑司ヶ谷墓地の埋葬式にも列しながら、未だに私には先生の死が信じられない。この夏私はパリで、恩師ブルデル先生のアトリエを訪ねた。先生は二十年前に亡くなられたが夫人はまだ健在で、昔の弟子を温くもてなして下さった。その時、私が日本流な考えで、一度先生のお墓参りをしたいというと、夫人は「ブルデルはここにいる。このアトリエにこそ、彼は生きているのだ」と率直にいわれ、なるほどと感じた が、同じ意味で、羽仁先生も、その生涯をかけて育てて来られた学園に、いつまでも生きておられるのだと私は思う。(1955 年 12 月 2 日)
八ヶ岳美術館は清水先生からの彫刻 107 点、絵画 20 点の寄贈を受け、1980 年、生まれ故郷の原村に開館。その年、清水先生は文化功労者として顕彰を受けています。翌 1981年、84 歳でその生涯を閉じました。
清水先生の自由学園での美術講師としての指導は、創立者亡き後、1974年まで続けられます。講師退任後も関わりは続き、最晩年の1980年、自由学園美術工芸展に際しても、文章をお寄せくださっています。芸術教育についての高い見識と共に、自由学園の美術教育の目指すところを示す言葉です。
「美術や音楽などの芸術教育の特長は、はじめから出来るだけ高いもの、優れたものにふれさせなくてはならないものだということです。美の心は、教程を追うことによって育つというようなものではありません。幼稚なところ、低い段階からはじめてゆく他の学科とのちがいは、そこにあります。自由学園ではこの考えの上に立って、こどもたちに、つねに高いものにふれさせることを指導方針としてつとめているのです。また東洋美術からはじめるとか、西洋からとかいわず、時代、民族を超越して、いろいろなものに親しませること、純粋美術のみではなく、技能を重んじ、新しい時代的な材料とともに、伝統的な材料など幅ひろく用いて、それらの間に自分の才能の拠りどころを見つけさせてゆく、めいめいが自分を探し出すという方向に指導しているのです。同時に、創作というか、ユニークな個性を伸ばすことを励ましてゆくのは、いうまでもありません。」
八ヶ岳美術館で清水先生の評伝『太陽への道』 (早坂義征著)を購入しました。生涯と作品が詳しくまとめられており、とても勉強になりました。また『真実と美を生活に 自由学園工芸研究所 歩みと創作のこころ』を再読しました。清水先生と生徒の写真はこの本からのものです。
なお「みどりのリズム」は、サンフランシスコ条約締結を記念して松坂屋が都に寄贈したもので、彫刻コンクール形式で一位に選ばれ上野公園内に設置されたものです。この作品は清水先生の代表作として、北海道から九州まで 16 ヶ所に設置されているそうです。
今日、自由学園図書館で、自由学園所蔵の清水先生の作品を確認しました。

美術館野外展示にもある1940年作の母子像も所蔵されていることを知りました。さらに一点、羽仁吉一先生のお部屋にも作品が残されているそうです。日をあらためて確認したいと思います。