戦没画学生慰霊美術館無言館と上田市美術館を妻と共に訪れました。

無言館は第2次世界大戦の戦没画学生たち130人の遺作となった作品を、収蔵•展示しています。開館から28年、作品を通じて平和の尊さと戦争の悲惨さを静かに語りかけています。
前回の訪問は2021年11月。学生たちがコロナ下で企画した20歳の研修旅行に同行してのことでした。親密であることが避けるべきこととされたコロナの状況の中、学生たちは人生の節目の年に親睦と学びの研修旅行を計画し、その目的地として選んだのが「無言館」でした。熱心に作品に向き合う学生たちの姿は印象深く、私にとってもこの年の心に残る出来事でした。
館内に入るとさまざまな年齢の多くの方が作品に見入っていました。一枚一枚の絵には作者名と共に、経歴、享年と戦没地、亡くなった日とそのときの状況が記されています。
戦没地は中国各地、フィリピンへ移動中、セブ島、ルソン島、ミンドロ島、サイパン島、ガダルカナル島、シベリア、沖縄など各地に広がっていました。消息不明、結核での病死という記載も多くありました。
もしかするとこの中には自由学園の卒業生戦没者の方々と同じ部隊で運命を共にした方もいたのではないかと想像がめぐり、戦地と戦没年月日に自然と目が向きました。
それぞれの絵が描かれた状況についての説明や、ご家族が保管してきた日記や手紙なども展示されており、絵の背景を知ることができました。戦地からの妻や子どもへの手紙、何度も行き先不明で戻ってきたという両親からの手紙もありました。
今回一番印象に残ったのは、「あなたこれ読んだ」との妻の言葉で目を通した、戦地の夫から妻に宛てられた絵入りの手紙でした。悲しい手紙が多い中で温かいユーモアの感じられる内容でした。
便箋の中央に描かれた絵は、椅子に座って妻からの手紙を読む自分の後ろ姿を描いたもので、なんと巻紙のその手紙の端は手元から床に落ち、部屋の隅まで伸びる長さでした。
妻が受け取ったその絵入り手紙には、妻からの長い手紙を読む様子を目にした部下が、夫婦仲のよさを羨ましがったというエピソードがしたためられていました。
ユーモアと愛溢れるやりとりから互いに相手を気遣う温かさが伝わってきました。しかし同時に、この2人は再び会うことはなかったという事実が重く悲しく迫ってきました。

上田市美術館「山本鼎コレクション」コーナーでは、自由学園草創期の美術教育についての展示を見ました。
今では図画や美術の時間に、子どもたちが見たものを自由に描くことは当たり前のことですが、以前はお手本の絵をそのまま写すことが求められていました。山本鼎(1982-1946)はこれに異を唱えました。
今回の展示では、ヨーロッパ留学から帰国した鼎が大正初期に開始した「児童自由画教育運動」と「農民美術運動」という2つの芸術運動に焦点が当てられていました。

またその運動が、鼎が最後に4ヶ月滞在したロシア・モスクワでの「児童創造美術展」や農民工芸との出会いによって触発されたものであることが紹介されていました。
モスクワで、児童の生き生きとした表現に感激した鼎は、お手本を忠実に写す当時の日本の「臨画教育」に疑問を抱き、児童が直接対象を見て描く「自由画」を提唱することになったそうです。
1921年、羽仁もと子、吉一夫妻は自由学園創立にあたり、山本鼎の取り組みに注目し、鼎を美術科の主任として迎え、鼎は以後およそ20年にわたり児童生徒の指導に携わりました。

「児童自由画教育運動」の展示コーナーでは、はじめに臨画教育の国定教科書や鼎が巻き起こした児童自由画運動の経緯が解説され、続いて自由学園のコーナーでは、「美術の時間」の構成やその成果としての生徒作品、指導者山本鼎、足立源一郎の言葉などが、「自由画教育運動」の実践事例として紹介されていました。

鼎は自由学園の美術教育のモットーを「研究心と独創力の奨励」という言葉で伝えていました。

今回の展示を見てあらためて、近代化を推進する日本の教育の発想が、大人の作ったお手本を忠実に再現することをよしとするものであったことを感じました。
これに対し鼎は「自分が直接感じたものが尊い」という信念で制作と芸術運動に向き合いました。
山本鼎は美術教育の側面から、羽仁夫妻は人間教育の側面から、正解を詰め込む教育に疑問を感じ、手を携えてそれぞれの子ども自身の中にあるものを引き出す教育にあたりました。
その鼎の運動がロシアの子どもや農民の表現活動に刺激されたものであることも興味深いことでした。ロシアでの出会いがなければ鼎の人生も日本の美術教育の歩みも違ったものになっていたかもしれません。
また鼎が「農民美術」を提唱した数年後、宮沢賢治は「農民芸術概論綱要」を表し、羅須地人協会での実践を始めます。また2人はほぼ同じ頃に日蓮信仰の国柱会に入信しています。教育や農民芸術の観点から、2人の関係も興味深いところです。
なお上田市は医師であった鼎の父が診療所を開業した鼎にゆかり深い場所です。鼎の没後、日本農民美術研究所に学んだ人たちを中心に記念館建設の声が上がり、鼎と親交のあった美術家や篤志家からも広く寄付や作品寄贈があり、1962年に上田に記念館が設立されたとのこと。
2014年上田市立美術館開館にあたり記念館も統合され、現在、山本鼎コレクションは常設展示となっています。この成り立ちも草の根運動に取り組んだ鼎の生涯をよく示すものだと感じました。
※撮影可能な展示品を撮影しました。