子どもに対する「戦争」は長く教師や学校、親、社会によってしかけられてきました。そして今もしかけられ、さらに大人は子どもを「戦争」へと仕向けています。私たち大人は子どもの魂の平和のための武装解除をしなければなりません。
1932年、マリア•モンテッソーリの「Disarmament in Education」と題するメッセージの一節です。

子どもの自殺が増え続け、自殺の特異日が9月1日という現実はこの言葉が過去のものではないことを示しています。
8月初め、今の教育に違和感を感じる高校生たちが自由学園を会場にシンポジウムを行いました。「成績評価という一本の綱を皆で競って登っていくので、僕たちは蹴落とし合うしかない」という重い言葉も「戦争」の一端を示すものです。
2023年の夏、「京都モンテッソーリ教師養成コース創立50周年記念 モンテッソーリ教育講習会」にお招きいただき「いのちへの信頼 モンテッソーリと羽仁もと子」というタイトルでお話しさせていただきました。冒頭の言葉はその際に紹介したモンテッソーリの言葉です。
教育に関わる私たちがそもそも何に向き合わなければいけないのか、モンテッソーリの問いかけは重く深く考えさせられるものです。以下、講演内容の一部をご紹介します。
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1932 年、モンテッソーリと羽仁もと子は共に、ニースで行われた第 6 回新教育国際会議に参加しています。新教育連盟は 1921 年に設立されましたが、設立の背景に1918 年に終結したばかりの第一次世界大戦後の戦争への反省がありました。世界の平和と国際協調を目指し国際連盟が 1919 年に設立されており、これに呼応し、人種、宗教、国家の枠を超える世界の教育者のネットワークとして新教育連盟が組織されました。しかしその後 10 年ほどたち 1932 年のこの新教育国際会議の時点では、再び世界が戦争に向かうのではないかという不穏な状況が世界に広がっていました。日本についていえば会議前年1931 年、軍部が満州事変を起こし中国への侵略を開始し、1932 年3月には満州国が建国されています。
この会議が行われる 3 か月前には、戦争に消極的だった犬養毅首相が暗殺される 5・15 事件が起こっています。中国は満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて国際連盟に提訴し、翌 1933 年にその主張が認められると、日本は国際連盟を脱退します。同じ年にドイツも連盟を脱退し、国際連盟の体制はここから揺らいでいきます。このような背景で行われた第 6 回新教育国際会議です。
この会議の様子は新教育連盟の機関紙「新時代」1932 年 9 月号に掲載されていますが、そこにはモンテッソーリの文章と共に、この会議を終えての羽仁もと子の感想も掲載されています。

もと子は、平和が喫緊の課題となっているこの世界状況を背景に、「教育実践から身を引いてでも平和運動に参加すべきだと思うことがあったが、今回の会議に参加し、この世界の教育関係者のネットワークを通じて、平和をつくる理想の実現を図ることができると確信した」と述べています。
この雑誌に掲載されたモンテッソーリの文章は、「Disarmament in Education」というタイトルです。私はこれを初めて読み、その独創的な内容について深く考えさせられました。
まず Disarmament in Education というタイトルですが、直訳すると「教育における軍縮」「教育における武装解除」となります。Disarmament という言葉ですが、armament は軍隊で使う武器、兵器、これに反対を意味する Dis がついて、武器の放棄、軍縮を意味する語になっています。
私は内容を読む前は、教育を通じて戦争の悲惨さを知り、二度と戦争を起こさないために何ができるかを考える人を育てる、いわゆる「平和教育」の必要性について論じた内容だと思いました。しかしモンテッソーリがここで述べる軍縮、武器の放棄は通常の理解とは異なります。それは次のような言葉で始まります。
「軍縮の必要性が大人の社会環境だけに存在すると考えてはなりません。 私たちの世界教育者連盟には軍縮への別の取り組みが必要です。」
「今日の教育において戦争状態が存在し、犠牲者が主に子供であることを私たちに確信させています。私は子どもだけが犠牲者であるとは言いません。しかし強い大人と弱い子供の間で戦争があるのです。」
「教師はしばしば子どもを迫害する存在であると言っても過言でありません。またこの戦争は学校に限った話ではありません。父親や母親は強く、子どもは弱いのです。父親と母親は独裁者であり、訴えることのできない裁判官でもあります。」
つまりモンテッソーリは、子どもであるがゆえに大人が子どもを否定し、大人が強者として子供に向かう姿勢そのものを、大人が子どもに仕掛けている「戦争」と呼んでいるのです。
その戦争には意識的なものもあれば、無意識のものもあるといいます。そして悪と過ちの根源であるこの「魂の戦争」は、子どもの誕生と共に開始されると述べています。
そして、なすべき真の教育改革について次のように述べています。
「真の教育改革は、複雑でありかつ単純です。私たちが本当にしなければならないのは、子どもに対する根本的な態度を変え、子どもの性格と善良さを信じて愛をもって子どもに接することだけです。自分が愛されていると感じる子どもは、新しい自分になりたいと働くことも惜しまなくなるでしょう。」
このように教育の根本は、子どもへの信頼であり愛であることを訴えています。
さらに蜜を集めるミツバチが蜂の巣を必要とするように、大人は子どもの蜜を要求するだけではなく、ミツバチたちのための蜂の巣のような、子どもたちが自分の人生と成長のために必要とするものを整えた子どもたちのための家が必要なのですと、子どもにとっての環境の重要性について触れています。
Disarmament in Education は、大人が子どもに向かう際に、手に握っている武器を手放すことを訴えるものです。この武器は、子どもが本来生まれながらに持っているいのちの力の発達を阻害するすべての要素にあてはまるものといえます。
これは「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という後のユネスコ憲章に通じる言葉です。
このような視点で考えたときに、私たち大人は、今子どもたちに、一体どのような武器を突き付けているかと考えさせられます。またどのように私たちは武装解除を行うことができるでしょうか。
学校生活にも 100 年前と同様にさまざまな大人の武器が転がっています。単一の価値観のもと競争と序列化の中に子どもたちを整列させることも子どもたちに仕掛ける戦争です。
今この戦争は、グローバル社会の中での有用な人材という成長目標という形で、子どもたちに仕掛けられています。格差を生み出す競争社会が子どもに戦争を仕掛け、さらに子どもを戦争へと駆り立ていると言えます。
羽仁もと子は、「生活即教育」という文章を書いていますが、この「生活」において、最も重要な要素は大人の生き方そのものであり、親はまず自分自身の生き方そのものを自覚を持って見つめ、親自身が自分のいのちを十分に働かせて生きることが必要であると述べています。子どもにとっての自覚的な生活環境はそこから始まるということです。
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9月1日を迎えるにあたり教育に携わるものとしての自戒の念を込めてDisarmament in Educationを紹介させていただきました。
講習会の講演要旨が先日刊行された自由学園の「生活大学研究」2025 年 10 巻 1 号に掲載されました。ご関心のある方は以下URLからご覧下さい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiyu/10/1/10_83/_pdf/-char/ja
写真の「Disarmament in Education」は「THE NEW ERA IN HOME AND SCHOOL」(SEPTEMBER 1932 p257)です。