保護者便りに書いたものを採録します。
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もちろん教師生活を50年以上もやって来た私への警告です。私自身の懺悔といっていいかもしれません。そんな気持ちで書きました。
何時聞いた話かは正確に覚えていません。たぶん、数年前、有楽町の会館でカウンセラー関係の学会で話をした後に心理カウンセラーの方から聞いた話だったと思います。
児童養護施設での子どもたちのことです。
施設を訪問した彼は、赤ちゃんの泣き声がちょっと普通に聞く声と違うなと感じたそうです。
誤解があるといけません。児童養護施設の赤ちゃんのすべてがそうだとは限りません。私が直接聴いた泣き声ではありませんから慎重に話さなければいけません。
児童養護施設の赤ちゃんは、誰も呼んでいない泣き声だというのです。
たくさんの子どもが「わ~~ん」って泣くんだけども、誰が泣いたかわからないと云うんです。同じように聞こえて声がスーと消えていくと云うのです。諦めが先にあるような泣き声だと云うのです。
これに比べて、家庭で育った赤ちゃんは、人を呼ぶように泣くと云うのです。「わ-ん、わ-ん、わ-ん」。早く気がついてよと云うように泣くと云うんですね。
悲しいような話ですが、言葉と呼ぶ以前の泣き声に他者に送るメッセージあると云う話です。そしてそれを聞き分けることの出来るのは、親だと云うことですね。赤ちゃんはいろいろな時に泣きますね。おしめだったり、熱が出たり、その声が何故発せられているかわかるのが人間の親子だと云うんですね。児童養護施設に人間関係が不足しているなどと云うつもりではありません。ただ、集団として接していると、(学校は基本的に集団を対象としているわけです)、子どもたちの泣き声の区別がつかなくなると思うのは、私も同様の感覚です。
少し前かもしれませんが、ローリス・マラグッチの「子どもたちの百のことば―とんでもない、百はちゃんとある」という詩が話題になりました。こんな詩です。
子どもは
百のもので作られている。
子どもは
百のことばをもっている。
百の手と
百の考えをもち
遊んだり話したりすることに
百通り考え出す。
百通りはいつも
聴き入ること、感嘆すること、
そして、愛することにある。
さらに
百の世界を歌うことと理解することに
百の喜びを感じるが
それは
百の世界の発見と、
夢見る百の世界の創造を生み出す。
子どもは
百のことばを持っていても
(実際にはさらにその百倍もその百倍も、そのまた百倍もだが)
人々はその九十九を奪う。
学校の文化は
頭をからだから切り離す。
そして、子どもにこう教える―
手を使わないで考えなさい。
頭を使わないで行動しなさい。
人の話をちゃんと聴き
楽しまないで理解しなさい。
そして
愛したり感嘆したりするのは
復活祭とクリスマスのときだけにしなさい。
学校の文化は子どもにこう教える―
すでにあるものとして世界を発見しなさい。
人々は子どもたちにこういう―
すでにそこにあり
その九十九を奪われている百の世界を
「発見」しなさい。
人々は子どもにこうも教える―
仕事と遊び
現実とファンタジー
科学と創造
空と大地
理論づけと夢は
それぞれが別々で
一緒になることはない、と。
そして、彼らは子どもたちに
百のものなんてない、と。
ところが子どもたちはいう―
そんなことはない。
そういう百は、
ちゃんとそこにある、と。
ローリス・マラグッチのことは、幼児教育に関わっている人にはあまりに有名かもしれませんが、レッジョ・エミリア市の幼児教育実践を中心的に展開してきた人ですね。レッジョ・エミリア市は北イタリアの小さな町です。第二次大戦の終戦直後、破壊された町の中で新たな教育が始められたのです。難民・移民・植民地からの引き揚げ者など、この町は実に多国籍・多言語をもつ多様な人々で溢れかえりました。その時にこの詩が教育の理念になったのです。レッジョ・エミリア市立のすべての幼児学校の中に、一人の教師と同じくアトリエリスタを正式に配置するなどといった、ユニークな試みでも知られていますね。アトリエリスタは異なる多様な言語をもっている人として、教育に重要な役割を果たすと考えられていたのですね。アトリエリスタはアトリエにいる人という意味で、アートティーチャー(美術を教える教師)ではないのだそうです。又、物理学者が幼児学校に入るのも歓迎されたそうです。物理の言語を知っている人がいれば、物理的な関心を示す幼児とともに世界にかかわることができるからです。多様な人がいれば、それだけ多様な豊かな方法で世界を見ることができると考えられていたのですね。単純に比較出来ませんが、戦後、日本の幼児教育の現状とはだいぶ違うようですね。(自由学園の感性教育と応じるものがありそうですがね・・。)
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少し違った話をします。
前にも、お話したような気がしますが、道路を挟んで私の書斎の真向かいに、たぶん4歳くらいの女の子(まだはっきりと会った事はないのでどんな子なのかはわかりません。仮にAちゃんとしておきます。)と2歳くらいの赤ちゃん(たぶん女の子、Bちゃんとしておきます)がいます。窓を開け放すこの季節限定なのですが、話し声がよく聞こえます。
「おこっているんじゃないのよ。理由が聞きたいのよ。」とお母さん。
沈黙。
「どうして遊んだ後片付けないの。どうしてなの。」とお母さん。
何かもぐもぐとAちゃん。
「このままでいいという理由が聞きたいのよ。おこっているんじゃないのよ。ちゃんとお話がしたいのよ。」とお母さん。
沈黙。
「お話し上手でしょ。理由を話して。」
沈黙
「じゃあこのままでいいと云うことね。捨ててもいいのね。アンパンマンもいらないのね。」とお母さん。
ほとんど聞こえないAちゃんおのすすり泣き。(私の想像です・・)
「お姉ちゃんでしょ。これだとBちゃんも片づけしなくなるのよ。だから怒ってないって云ってるでしょ。」
ピンポーン。(これも聞こえたわけではありませんが・・たぶん)ほぼ8時定刻に帰宅です。
「いい子だったか」とお父さん。
しばらく、聞こえない会話がさざ波のようにあり、、、、、。
Bちゃんが元気よく大声で叫びます。
「カンピャイ」
Aちゃんがからみます。ほぼ毎日。
「今日の乾杯は私でしょ。」
まあ、大体このような幸せな話なのですが。
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これもだいぶ以前に聞いた話なのですが。たぶん平田オリザさんからだったと思います。
よい看護師さんと云う話です。
問:::入院している患者さんが、「看護師さん、看護師さん、看護師さん、痛いよ。痛いよ。」と叫んだときの反応です。第一対処としてどれがいいでしょう。もっともよい対応を選びなさい。
答え:::
Aの看護師さん。「すぐにお医者さん呼びますね。もう少し我慢してね」と助けを呼ぶ。
Bの看護師さん。「どこですか。首ですか。胸ですか。」と理由を聞く。
Cの看護師さん。「痛いね。痛いね。痛いね。」と肩をさする。
正解はCの看護師さんです。
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まとまりのない三題ばなしになりましたが、ここからいろいろなことが考えられるのではないかと思います。学校が果たす役割とは何か。従来の全体統一主義でいいのか。個々の学生に寄り添うとは如何なることなのか。本当に学生たちの泣き声を聞き分けているのか。百通りの文化を聞き分けているのか。
最後に聖書の一説を引きましょう。
「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイによる福音書 18章12~14節)
よく引かれる一節ですが、もっとも我々が心しなければならないのは、九十九匹よりも、一匹のために喜ぶと云う点です。多数者ではなく、少数者の喜びに寄り添うことをこの一節は教えているのです。泣き声を聞き分けて、心して前に進みたいと思います。
2019年11月27日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)