第60回 田中正造と勝海舟/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第60回 田中正造と勝海舟/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第60回 田中正造と勝海舟

2017年2月14日

勝海舟に関することを調べていたら、海舟が足尾鉱毒事件の田中正造のことを、高く評価していたことを知った。それで急に思い立って、館林の田中正造記念館を訪ねた。

田中正造記念館

以前、保育園の一角にあったものが、館林の駅から徒歩で15分の城下町の風情を残す旧鷹匠町(現大手町)に2013年に移転したもの。パネルやビデオを中心に展示されている。
足尾鉱毒事件への支援者展示の最初に勝海舟の紹介があった。これに榎本武揚・谷干城が並んでいた。

記念館は和室を改造したもので大きくはないが、心のこもった記念館である。ボランティア活動によって運営されているもので、説明も実に懇切丁寧であった。「煙害で消えた緑の松木村」などと云ったカルタや小学生向けの教材ビデオも上映されている。

明治31年6月30日の事として、『海舟座談』(巌本善治編)には、
「田中が夕べ来た。『お前は何になるのだ』というたら、「総理大臣だ」というから、それは、善い心掛けだ、ワシが請判をするといって、証文を書いてやった。名あてが閻魔様、地蔵様、勝安芳保証としてやった。大層悦んで帰ったよ。」と記されている。
その証文は、地蔵様が阿弥陀様に変わったりしているが、「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度総理に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」(勝海舟全集第22巻「秘録と随想」と残った。

海舟は、死んだら田中正造を百年後の総理大臣にするように、阿弥陀様や閻魔様に頼んでおくと誓約したのである。
戯言では済ませまい。今から約百年ほど前のことである。

それ以前、明治27年の『海舟座談』(巌本善治編)には、
「鉱毒の事は、とうに調べて置いたよ。わざわざ日光へも行って見たのさ。あっち(足尾)の方へは行かんがネ、歌が詠んであるよ。
かきにごし かきにごしなば真清水の 末くむ人のいかにうからむ
エ、明治27年サ。古川が会いたいと言って来たのだったが、会わなかったが、よかったよ、ナニあれも分る男だろうから、話し合いを付ければ、それでいいのだがネ。・・・委員とか何とか云って、色々のものを持ってきたよ。返したがね。田中(正造)は知らないのだネ。何か、もち上がりそうかエ。どうせ、血を見ずには、止むまいよ。一つ騒ぐ方がいいのサ。」といった記述がある。古川は、足利銅山所有者、古河市兵衛である。

恥ずべきことだが、私の中にも、足尾鉱毒事件は過去のような思いがあった。
2011年の東日本大震災の時には、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、今また新たな問題を提起している。もう一度真正面から受け止めねばなるまい。

石川啄木は、盛岡中学3年の時、田中正造の天皇直訴に感動してカンパ活動を行ったそうだ。惣宗寺には、啄木の碑がある。
夕川に 葦は枯れたり血にまどう 民の叫びのなど悲しきや
惣宗寺(佐野厄除け大師)にも回ろうと思ったが、何しろ関東平野は寒い。館林のうどんで暖まったら動けなくなった。ナマズの天ぷらも白身でさっぱりとしたいい味であった。

勝海舟のことは『東京人』5月号に短いものを掲載する。田中正造には一行触れた。

2017年2月14日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

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