第74回 反戦主義者末永敏事と中嶋静江/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第74回 反戦主義者末永敏事と中嶋静江/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第74回 反戦主義者末永敏事と中嶋静江

2017年7月31日

学内図書館の村上民さんから一冊の本をいただき一気に読みました。森永玲著『「反戦主義者なる事通知申上げます」-反軍を唱えて消えた結核医末永敏事』(花伝社 2017年7月刊)です。『長崎新聞』に連載されたものをまとめたものです。

略譜を記しておきます。

敏事が生まれたのは、明治20年(1887)、場所は、長崎県島原半島の北有馬村今福です。父は素封家で塾を開き漢学を教えていました。長崎中学を中途退学後上京し、青山学院中等科で学び、無教会派のキリスト教の影響を受け、内村鑑三に出会い、生涯を通して師事します。
卒業後長崎に戻り、長崎医学専門学校を、大正元年(1912)に卒業、結核の専門医として台湾へ赴任、二年後、アメリカに留学します。シカゴ大学・シンシナティ大学で研究に専心、アメリカの結核医学会で論文を発表しています。
大正14年に帰国、翌昭和元年(1926)6月に、内村鑑三の司式で元日本郵船専務取締役の令嬢中嶋静江(明治33年生まれ)と帝国ホテルで結婚します。

昭和2年(1927)、末永敏事は、中嶋静江の母校でもある自由学園で校医また自然科学の教員となります。当時刊行されていた、学内向け英字紙(THE GAKUEN WEEKLY)に記事も寄せています。又一方で、東大医学部で結核の共同研究に打ち込みます。
昭和4年(1929年)故郷長崎県北有馬村で末永医院開業。この年、9月長女範子が誕生。昭和7年には郡立結核療養施設を建議。
昭和8年(1933年)1月27日末永夫妻は、青山苑太郎の四男弘15歳と養子縁組していますが、2月24日に養子縁組を解消しています。
同年、2月8日 末永敏事・静江夫妻は離婚、静江は旧姓中嶋に戻っています。

昭和12年(1937)茨城県久慈郡賀美村折橋で、「末永内科医院」を開業。同13年、賀川豊彦の推薦で茨城県鹿島郡結核療養施設「白十字保養農園」の結核医として入職します。
この年、日中戦争に突入、国民を戦争体制に従わせるために「国家総動員法」が施行され、国民徴用令と国民職業能力申告令が出されます。もちろん末永も、医療関係者職業能力申告書に記載しなければなりません。
彼は、昭和13年10月4日付の茨城県知事宛に郵送した文書に次のよう回答します。
「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義者なる事及び軍務を拒絶する旨申し上げます」と、、、・
キリスト者が戦争反対を明確にすることは犯罪だったのです。

10月6日に身柄を茨城県特高に拘束され、送検されたのは翌年昭和14年1月です。「日中戦争は侵略」と唱えたことによる雑言飛語罪です。起訴後、3月18日には水戸裁判所で禁固三か月の刑が決定します。繰り返します。彼は自らの意見を述べただけです。
末永敏事は、裁判において何も語らず沈黙を守ったようです。それは無教会派の浅見仙作や矢内原忠雄等の反戦主義者とも異なった態度だったようです。
彼は無名のまま非戦を貫いたのです。彼の名を知る人は本書刊行までほとんどいませんでした。当時の人たちは、彼のことを思い出すことも許されなかったのです。
検挙後の彼の動向は明確ではありません。墓所についても不明のままです。獄死なのか、病死なのかははっきりしません。戸籍によれば、亡くなったのは清瀬、昭和20年8月25日でした。故郷の北有馬村に死亡届が出されたのは2年近くも過ぎた昭和22年8月5日です。

中嶋静江は離婚後の昭和8年、自由学園派遣4人目の留学生としてフランスへ留学します。学園新聞は1934年1月1日号で「4人目の留学生を フランスへ送る-中嶋静江さん 工藝研究のために―」と見出しを付けて報じています。彼女は、パリ市立女子美術職業学校でデッサンと服飾デザインを学び、帰国後、戦争が激化するまで、『婦人之友』を中心舞台としながら、先進的なフランスファッションを広めていきます。又、昭和46年まで自由学園で洋裁を教えています。
中嶋を知る人は、自由学園に関係する人たちや卒業生の中に多くいます。その一人、小谷野温子さんは、「才気があり、ざっくばらんなお人柄。先生の指導で作った洋服は宝物でした。」と述べています。そして又、千葉公子さんは、「衣も食も、自分で考え、人に教えられ、命を生きていくことだと思う。主体的に、家庭で、自分で、作れるものを伝えていきたい。中嶋先生のしごとはまさにそうだった。」と本書の中で述べています。

主体的に生きることこそ、自由の根源です。その精神は学園の宝物です。そのことをあらためて深く考えさせられた一書でした。
学園は今夏休み。敏事と静江。元教師二人のことを考えながら濃く深い静かな緑の中を歩きました。あの時、「戦争に反対だ」などと云わなかったならば、先端医学に献身する白衣の敏事とフランスの薫りを個性的に身にまとった静江はこの欅の坂道を大芝生に向かって歩いていたに違いありません。
二人は別の道を歩いてはいません。戦時下の厳しい時代に共に<自由>を追い求めたのです。その接点を模索することは、自由学園に連なる一人ひとりが考えねばならないことです。
すべての人に薦めたい必読の一書です。

追記::あまりに低級な政治権力者の混迷が続いて攪乱されたためか、一ケ月半ほど前の早朝の国会で成立した「共謀罪」の事も忘れてしまいそうです。成立の意味を忘れないためにも読んでおきたい本です。

2017年7月30日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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