第88回 成人の集いと咸臨丸/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第88回 成人の集いと咸臨丸/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第88回 成人の集いと咸臨丸

2018年1月14日

七五三や法事で新宿の水たき店「玄海」を使うことが多い。鶏ともち米で作る白濁の鶏ガラのスープが抜群だ。
1月13日昼、店のウインドウに、この日が、咸臨丸の出航記念日であることが貼られていて驚いた。「玄海」は、その部屋に、頭山満の書が掛けられていることでも知られているから、そのことと関係あるかもしれない。
この日の夜、明日館で、自由学園の出身者の成人の祝いがあった。この日が、万延元年1月13日、咸臨丸出航記念日であったことにふれたかったが、乾杯の発声をして、すぐに帰った。あふれる若さの前では何だか野暮のような気がしたので、ここで触れることにする。

浦賀湾を一望する愛宕山公園の中程に咸臨丸出港の碑がある。幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、アメリカの軍艦ポーハタン号で小栗上野介忠順ら使節団をワシントンに送った。咸臨丸はその護衛船だ。日本の船が正式に外国を訪問した最初の出来事だ。
碑の裏側に乗組員九十六名の名前を刻む。上段には、艦長であった勝麟太郎(海舟)を初め、福沢諭吉、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)等26名、下段には、名字のない、兵吉・仁作・吉松・大助・九平といった、70名の名前が挙がる。歴史の表舞台に立つことなく、火焚・鍛冶・大工・水夫として咸臨丸を動かした人達である。
39日間の航海は、季節風による暴風雨の影響で苛酷だったが、日本人一行は大歓迎を受けた。一行は、初めて見る灯台やガス灯、石畳、ガラスのショウウインドウに目を見張り、魔術のような蒸気機関車やミシン、マッチに驚嘆し、飲み物の上に季節はずれの氷の浮いているのに肝をつぶし、ワインやビール、そしてラムネに酔いしれた。福沢諭吉とジョン万次郎はこの時、ウェブスターの英語辞書を購入したが、一行が何よりも驚いたのは、「木こりの息子でも大統領になれる」という自由の空気であった。日本人はここで初めて〈平等〉という言葉を知ったのである。

10年以上前、サンフランシスコ、リンカーン・パークに「咸臨丸入港百年記念碑」を訪ねた。記念碑は、背後に入り江になった湾にかかるゴールデンゲートブリッジをみる丘の上に、浦賀の出港記念碑とちょうど向かい合わせになるように建てられていた。
又、郊外のコルマの町に日本人共同墓地がある。この地で亡くなった日系の人々の墓地である。この中に咸臨丸で亡くなった三人の墓が並んでいる。いずれも、浦賀の記念碑の下段に、名前のみ記されていた男達である。

左側と右側の墓は同型で、表面に勝海舟が記したとされる漢字で、「日本海軍咸臨船之水夫 讃岐国塩飽佐柳嶋 富蔵墓」・「日本海軍咸臨丸之水夫 讃岐塩飽 広島青木浦 源之助墓 二十五才」とあり、ともに塩飽諸島の水夫であったことがわかる。また、裏面には、いささか不明瞭な英文字で「TOMI-TZO」・「GIN-NO-SKI」とあり、共に1860年3月20日、源之助は23日に亡くなったと記している。中央の半円形の少し大きな墓には、表に英文で「ME-NAY-KEE-TCHEE」とあり、1860年5月20日に亡くなり、日本関係の商社を経営していた市民、チャールズ・ブルックによって墓が建てられたとあり、裏面には「安政七歳 五月晦日 日本九州長崎籠町蒸気方 峰吉」とある。
3月18日に咸臨丸は到着した。その後に富蔵と源之助は亡くなったのである。また咸臨丸は5月9日に出航しているから、峰吉は、咸臨丸出航後に死んだのである。〈平等〉の大切さを知っていたサンフランシスコの市民に、時代を越えて感謝せねばなるまい。立派な墓は、それを物語る。
この他、重傷で療養を余儀なくされた水夫・火焚等六名(9月、日本、箱舘に帰還)と看護世話人2名がサンフランシスコの海員病院に残った。
荒海を行く咸臨丸の船底で黙々と釜を燃やし、帆柱を必死で守り通した、名字無き彼らの労働が、日本の夜明けを早め、そして彼等の命を縮めたのであろう。
アメリカから帰った咸臨丸を迎えた日本では開国から攘夷へと世論が変わっていた。帰国歓迎の祝砲は鳴らぬどころか、彼等を待っていたのは冷たい視線であったという。

帰国後、佐柳島を訪ねた。香川県多度津から佐柳島に渡り桟橋から10分ほど、墓前には、真新しい花があった。墓碑には「萬延元年申三月十日 行年廿七才 俗名富蔵」とある。コルマ墓地の記載は陽暦、これは陰暦によったもの。そして、墓の片面には「和去唐卒」とある。日本を去り、唐即ち当時の異国の地で亡くなったと言う意味だ。富蔵の墓の隣には、共に太平洋を越え帰国後坂本龍馬の海援隊に参加した高次(明治二十四年没)と妻の墓もあった。
塩飽(しあく)は、古来勇猛な水軍を輩出した土地である。墓の向こうに広がる瀬戸内海、塩飽諸島の緑と海の青さが目にしみ、浦賀・サンフランシスコとおなじ潮の香りがした。

咸臨丸に事寄せて、こんなことを書いたが、若き諸君に伝えたいのは、歴史を見る目である。成人、大人になると云うことは、歴史を直視することになると云うことだ。表の歴史も、裏の歴史も、晴れやかな歴史も、暗い歴史も、正の歴史も、負の歴史も、成功の歴史も、失敗の歴史も、可能な限り、多くの角度から見てほしいということだ。自分の眼で確かめてほしいと云うことだ。事実さらに真実を知ると云うことは容易ならない。
歴史を知ることは自己の確認だ。価値の多様性、混沌に未来のあることを自ら知り、それを分け入って進んで欲しいと思う。
纜を解く船出の晴れ着に祝意を込めて・・。

 

2018年1月14日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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