第96回 吉野太夫花供養/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第96回 吉野太夫花供養/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第96回 吉野太夫花供養

「吉野太夫」(ミネルバ書房・日本評伝選)執筆の取材もあったので、4月第2日曜日、京都常照寺の吉野太夫花供養に参列した。今年、66回目の恒例行事である。

早朝、「花冷えも浮き立つ心薄着して」などと、寒風に風流心を呼び覚まし新幹線に飛び乗った。10時30分、鷹ケ峰のバス停付近は、太夫道中を見る観光客で長蛇の列。以前来たときにはこんな雑踏ではなかったような気がする。
太夫の内八文字、兵庫髷の髪がゆれ、付きそいの少女の禿の鈴が、石畳を歩くたびに涼やかに鳴る。
花は盛りをいささか過ぎていたが、今日の寒さで何とか持ちこたえているようだ。道中が吉野寄進の赤門を過ぎると桜が打ちかけの裾に降りちる。

来賓として本堂の仏前に通されて当惑した。
「法要にそんな服でいいの・・・ジーンズ?・・」
「北山のあたりを少し歩いてくるよ、ジーンズでいいよ・・」
朝の妻との会話を思い出したがもう遅い。焼香は、吉野会会長、京都市長と続く、自分の軽装に恥じ入りたいような気持ちだ。家を出るときの妻の忠告に従っておけばよかった。
法華経の荘厳な響きのもとに焼香が続く。

吉野の名は、代々郭で引き継がれた源氏名。分かっているだけでも、10名ほどの吉野の名を冠した遊女がいるが、今日の供養は、二代目吉野のこと。
「なき跡まで名を残せし太夫、前代未聞の遊女也」と井原西鶴にも絶賛されている。慶長11年(1606)生まれ、六条三筋町で太夫に昇進、寛永8年(1631)26歳の時に退郭、本阿弥光悦一門の灰屋紹益の妻となり、寛永20年(1643)38歳で没した。
紹益と吉野の身請けを競ったのが、後陽成天皇の第3子、近衛信尋(関白、後に応山)。近衛信尋は、和歌にすぐれ茶道・連歌にも巧みであった。桂離宮を造営した智仁親王との交流は有名であり、修学院離宮造営の後水尾天皇は実兄である。
光悦中心の京都町衆文化、そして江戸時代初期近衛家を中心とした公家文化、さらに吉野の精神的バックボーンを支えた常照寺開山日乾上人を中心とする京都における法華経文化、それらが重なり合いながら日本文化の歴史の上でもっとも高雅に芸術・宗教の至上性を開花させた寛永文化のアイドル的というか、象徴的なヒロインが吉野太夫なのだ。
そしてさらに、日本で最初のベストセラーである「好色一代男」のヒロインでもある。
吉野は「好色一代男」の主人公世之介の妻である。(世之介は灰屋紹益がモデルとも)
世之介が吉野を妻とした話は、短編集成である「好色一代男」の中でも際立っていい話である。
七条通りの小刀鍛治の弟子が吉野を見初め、太夫のあげ代53文をようやくため吉野のもとへ行く。吉野はその真心に感じてその望みをかなえてやる。揚屋の主人は、身分の低いものと契ったことに苦情を云うが、吉野のパトロンであった世之介は、その振る舞いこそ「女郎の本意」だと、吉野をほめ、その夜のうちに身請けし妻とした。世之介の親類たちは、遊女を身請けしたことに大反対、世之介との親戚関係を絶ってしまう。自分のためにこのような仕打ちにあったことを悲しんで吉野は離縁を申し出るが、世之介は承知しない。そこで吉野は親類中をあつめ離別のパーティーをひらき、親類の女性たちを接待する。そこで親類たちは、その客扱いの見事さに感動し、世之介と吉野の結婚を認めた。
と云うような話である。身分差を越えた<性>接待は、吉野の「情愛」を強調し、客扱いの見事さは、茶道・和歌・香道・華道はもちろんのこと、その頃流行り始めた時計の直しまで行うと云う当時の遊女の教養の高さを示すものである。

裏千家の野点も気持ちがよかった。作法も何も知らないが、島原の太夫のお手前でいただく茶は格別だった。
華やかな中にきりりとした宗教性を感じる行事だ。

帰路、鷹ケ峯をブラブラした。山裾のせいか、薄着が身に沁みた。
このあたりは、反権力を内在した町衆の法華文化が、芸術集団としてまとまり、一時代を築いたところだ。その中心にいたのが本阿弥光悦。吉野存在の意味もそのあたりのことを考えなければなるまい。
夕暮れが近くなったせいか、観光客もまばらだ。光悦寺の庭から京の町を眺望する。この村は、京の王域を守っているのだ。山城にいるような錯覚さえ感じる。
この日は、花祭り。
遣迎院では、甘茶の振る舞いがあった。小さな御堂が草花でおおわれ、幼い釈迦像が灌仏桶のゾウの上に立っている。ほっとするような優しさがある。釈迦誕生の時に産湯を使わせるという風習によったもの。
坂を下って、今宮神社まで歩いた。
実に寒い。
秀吉が京都の防壁として作ったお土居の跡の前を通ると、降って湧いたように、やや不謹慎ながら、
「かっぽれ、かっぽれ甘茶でかっぽれ」とお囃子が頭の中をグルグル回り出した。
たぶん司馬遼太郎だったと思うが、今でも浅草の芸者さんが得意としている「かっぽれ」は、江戸城のお堀を作る時の掛け声に「かつ掘れ かつ掘れ」とやったのが始まりだとか、(ここまではお土居の連想)
新渡戸稲造だったか・・、ギリシャ語の「カルボーレ(収穫)」だと云ったとか、
私の好きなのは、「アンマチャ・デ・カプリオーレ(酒を飲んで踊ろう)」。

寒さが熱燗を呼び出し。
京都駅では朦朧の沈酔。新大阪行きに乗り間違える始末。
おかげで、始発でゆったり座って帰京。
「花冷えに吉野手を取るカッポレや」

 

■追記
翌日、始業礼拝。
復活祭後、第2主日マグダラのマリアの「携香女の主日」の話をした。マグダラのマリアとイエス。法然と遊女、さらに吉野と日乾上人と話を繋ぐ。「淫らな女」がかかわる聖性説話の意味するところを話したかったが、如何せん宿酔。

 

2018年4月17日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

 

 

 

カテゴリー

月別アーカイブ