第134回 「秋十年却って馬関指す故郷」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第134回 「秋十年却って馬関指す故郷」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第134回 「秋十年却って馬関指す故郷」

2019年9月29日

九州大学における江戸文学研究の関係者が中心になって刊行している同人誌『雅俗』に、私の下関時代の思い出をつづった記事が掲載された。それを転載する。
友人が亡くなって、いろいろのことがこみあげてきたからということもある。ブログ掲載は、月に2回と自分でノルマを決めていたのでその強迫観念に迫られたせいでもある。又、10月2日水曜日の「毎日新聞 夕刊」の「私の東京」という記事に学生時代のことが掲載される予定だが、その記事を少し補いたいと思った気持ちもある。もちろん過去を振り返る老人の繰り言でもある。

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東京の武蔵高校の教員から梅光女学院大学短期大学部の講師に着任したのは、1978年春、33歳の時だから、40年以上も前になる。
実に不安だった。下関には誰一人知っている人もいない。出身大学の関係者もいなかった。故郷である北海道からも遠かった。
唯一の頼りは、前年の1977年に立教大学から福岡大学に転じていた白石悌三先生だった。
白石先生には大学院修士に入学した頃からお世話になった。新代田のお宅では、西鶴の「独吟一日千句」の注釈を教えていただいた。二人きりの授業であったからまことにぜいたくな時間であった。
この頃、大学紛争が立教でも活発化していた。私は日和見学生だったが、大衆団交にも何度か参加して、教授陣に質問をしたこともあった。デモにも人並みに参加していた。
大学はほとんど授業がなく、自主ゼミという形で授業が行われた。私の主査教授は、歌舞伎研究の松崎仁先生であった。普段の授業は歌舞伎研究がテーマになっていたが、自主ゼミは勝手に自分の興味のあるものを持ち寄って注釈をつけると云うものだった。私が興味を持ったのは、その時まだ翻刻のなかった、仮名草子の「身の鏡」である。これが後に、『新日本古典文学大系 仮名草子集』に取り上げらえたのである。
自主ゼミは、そのあとで、「立教近世文学研究会」と名を変えた。これには松崎先生・白石先生の他に、その頃、人情本研究で知られていた前田愛先生も参加された。大学紛争の裏授業が私を育ててくれたのだ。
修士論文は、三教一致の教訓物を中心にした「仮名草子の研究」であったが、関心は同時代の儒学者山鹿素行に移っていった。これには、前田先生の「ケンジは、作品論もセンスなし。注釈も杜撰。翻刻もいい加減。残っているのは人物研究かな。」と云った忠告?とこの会話を隣で聞いていた井上宗男先生のサポート?が相当効いている。松崎先生から先生の親友であった今井源衛先生を紹介され、さらに今井先生から、平戸市長だったの山鹿光世氏を紹介され、「素行文庫」の調査に夏休みの1ケ月を使ったのもこの頃である。(松浦歴史資料館の黄表紙を見る時間の方がはるかに長かったが・・)井上先生からは、歌人佐川田昌俊研究のテーマをいただき、その週のうちに昌俊の父木戸元斎と関係の深かった直江兼続のゆかりの地を訪ねたのを思い出す。
依頼原稿などでテーマをもらうとすぐ動き出す。結果よりも、すぐ動きだすことに興味があるのだ。見境のない浮浪性は今も変わらず体にしみ込んだ習性だ。
不安を突き動かしたのはこの習性だった。その中で新たなテーマに向かっていこうと云う気持ちがあったことも事実だ。

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男子高校から女子短大への転身。下関の生活は不安どころではない。肴はうまいし、酒もいい、花園の楽園に身を投じたようなものだった。しっかり予習をしてくる女子大生にも励まされた。梅光の教員仲間もよかった。月に1回の教員による研究会、年に1度は必ず提出しなければならない紀要の原稿。順番で回ってくる公開講座。山口新聞にエッセイの連載を始めた頃には、海の見える丘に墓の用意を考えた。
白石先生に介護?されながら、九州大学の院生の研究会にも、参加させてもらった。「手紙を読む会」にも参加したがほとんど読むことができず、足を引っ張るばかりだった。行きはだいたい福岡教育大に着任した藤江峰夫さんと一緒だった。帰りは北九州大学に着任し小倉に住んでいた白石良夫さんと安酒を飲みながら一緒した。板坂曜子さんともよくご一緒した。
手紙を読むのは苦手だったが、研究会の文庫めぐりや調査にも時々同伴させてもらった。参加の第一目的は、研究会の後の懇親の方だった。年末恒例、中野三敏先生の案内で繰り出した中洲の「芝」の水炊きなど、実にいい思い出だ。

中野先生には、小城の多久の調査などにも同行させていただいた。又、先生が梅光へ集中講義にいらっしゃった時には、食事や映画もご一緒した。書誌又古典籍への取り組みなどについての梅光での講義も学生と一緒に受講した。そのノートは今も貴重な手引きとして机の上にある。
中野先生から、家に突然電話がかかってきた。受けたのは妻、私は短大の合宿で長府のホテルにいた。妻から慌ててホテルに電話がかかってきた。放埓な毎日を送っていたから博多で何事かしでかしたと妻は思ったのであろう。悲痛な困惑した声であった。
電話は、『新日本古典文学大系 仮名草子集』への注釈依頼であった。まさに青天の霹靂。有頂天な思いと自分に大役が果たせるかどうか自信もなかった。研究者としてやっていけるかもしれない。そんな気もした。白石先生の推挙があったと聞いたのはだいぶ後になってのことだ。それからの梅光時代の演習は、仮名草子研究一本だった。仮名草子作品の語彙カードを取り、それを靴箱に入れ、あいうえお順に並べた。靴箱に入れたのは、注釈の相談に渡辺守邦先生と前田金五郎先生のお宅を訪問した時、語彙カードがうず高く本箱に重ねてあったのを真似たのである。金五郎先生には及ぶべくもないが、立教へ転じた頃には、40箱を越えた。

調査員の時に、棚町知彌先生から連歌の悉皆調査に誘われた。中野先生との時間は楽しいものだったが、棚町先生との時間は厳しいものだった。「明日、宮島の連歌を見に行くから手伝ってほしい。朝9時広島で会いましょう。」といった電話が突然かかってきたことを思い出す。翻刻の手伝いなど出来るわけがない。昼食の場所を探し酒の飲めない先生の代役?をつとめるだけだった。白山での連歌シンポジュウム、四日市の今井祇園の連歌会への参加などもご一緒した。島津忠夫先生や連歌研究者との交遊を得たのも棚町先生を通じてであった。これが後にまとめた大名周辺の文人たちの調査に大いに役立った。

梅光では、高校回りと云う受験者集めをかって出た。セールスマンのような仕事だったから教員はあまりやりたがらない。担当は、対馬・五島といった離島めぐりだった。島に左程高校があるわけではない。一日に1、2校行けば仕事は終わる。五島の有川では勇魚取りの絵図を探し求め、対馬の厳原では、宗家の文庫に入り浸り、幸いに?嵐で欠航となり下関に帰るのが二日ほど遅れたこともあった。宗家でのこの下調べがきっかけで、市古夏生さん、木越治さん等と和書目録を作成した。さらに大分・宮崎・鳥取といった所の調査にも入った。(これらの土地には九大関係者の手が入っていないところという目論見もあった。)

これらの地方図書館めぐりを核にしたのが、博士論文として九州大学に提出した『近世大名文芸圏の研究』(八木書店)である。主査は中野先生、副査は今西祐一郎先生であった。大きく構えたような題名であったが、内実はボロボロの論文であった。いつの日か正誤表を出さなければと思っているが今に至るまでそれをしていない。学者としては失格である。審査が終わった後、中野先生から「アラ鍋」を誘われた。「アラ探ししようかね」とは、中野先生のジョークだったが、中洲での苦い酒を忘れてはいない。九大近世研究会卒業生の末席をけがしているが、中野先生から受けた学恩ははかり知れないものがある。白石先生から遺品としていただいた「佐川田昌俊の書簡」も翻刻せず、その後の研究にも生かしていない。自戒のみが大名周辺の研究では残る。
どうも大名はわたしの性に合わなかったのかもしれない。

下関時代に得たもう一つの研究方向は、地方遊里の研究であった。
何せ、歴史の下関である。郷土研究は盛んだった。教えを受けたのは、当時下関市図書館長だった中原雅夫先生だ。短大校舎の下の坂の途中にあった図書館で、白石長一郎日記のこと、そして下関稲荷町のことなど熱く語ってくださった。国分直一先生から『下関市史 民俗編』に、下関稲荷町の歴史をまとめるように勧めらえたのも、その後の研究の立ち位置を決めたように思う。
下関時代に始めた地方の図書館回りは、当初地方文人や残存する古典籍の調査であったが、興趣の赴くままに地方遊郭の調査に移り、講談社現代新書で『江戸遊里盛衰記』にまとめることができた。

丘の上の墓の建設は断念したが、海峡からはるか北九州の皿倉山の見える高台に家も建てた。下関での永住を決意したからだ。アパートから新築の家に引っ越しの時に手伝ってもらったのは、梅光での私の後任となった久保田啓一さんだ。又私とすれ違うように梅光の大学院担当として着任されたのが、松崎仁先生である。
下関を離れ立教大学に着任したのは、1988年。芭蕉の「野ざらし紀行」中の一句を真似た離別句である。

秋十年却って馬関指す故郷    ケンジ

 

2019年9月29日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

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