第155回 「やさしさを胸いっぱいに吸い込んで・・」(『明日の友』初夏号)/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第155回 「やさしさを胸いっぱいに吸い込んで・・」(『明日の友』初夏号)/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第155回 「やさしさを胸いっぱいに吸い込んで・・」(『明日の友』初夏号)

2020年6月1日

沈丁花の香りを吸うのを忘れていた。

3月初旬。いつもなら散り際を覚えていて、本格的な春の訪れを感じていたのに・・・。マスクのせいだろうか。マスクのせいばかりではないようだ。ゆっくり考え、丁寧に生活することを、忘れていたのだ。落語を聞きながら11時就寝、6時半起床。時々テレビ体操。朝食。8時半書斎又は学校へ。この基本リズムが、変わってしまった。3月中旬から、テレビの前から離れられなくなった。連続テレビ小説の結末も見忘れた。ほとんど同じ内容なのだが、テレビのコメンティターの話に引きずられる。情報が錯綜、回転して、不安の渦の巻に引き込まれそうだ。

春休みは、30年ぶりに生月島から、島原、天草、水俣へと回るつもりだった。納戸神のマリアに会いたかった。天草四郎、鈴木神社、石牟礼道子・・・。旅への思いが夢に駆けめぐる。しかし時刻表は机に放置されたまま・・・。どんなに気を付けていても、このコロナウイルスには罹ってしまうのだ。そう思って覚悟を決めてはいるが不安だ。迷惑をかけてはならない、移してはならない。郵便物を受け取っても手を洗う。神経がまいってくる。しかし、グダグダ愚痴っても致し方ない。

医師会の指示を受け、人込みを避け家の周りの1時間の散歩を日課にした。ニリンソウ。オドリコソウ。オオイヌノフグリ。ホトケノザ。ムラサキケマン。今まで覚えられなかった花の名が毎日の散歩で、胸に小さな明かりをともすようになった。

ネットの新聞記事にも目を通すようになった。3月27日のディリ―スポーツの記事が飛び込んできた。白血病で闘病中の広島カープのかってエース北別府投手が、コロナウイルスで陽性反応の出た阪神タイガース期待の若手、藤波投手に送った言葉だ。
「運が悪いと思うなよ。申し訳ないと思うなよ。しっかり治して 阪神ファンを 野球ファンを マウンドの上から喜ばせて下さい もちろん私もその姿を待っているし、復活する姿を見たいと思っていますよ」

胸が熱くなった。もしも学生が罹患したらこの言葉がかけられるだろうか。「何やってんだよ。何処をぶらぶらしてたんだ。勝手な行動で迷惑がかかるんだぞ。」そんな言葉を吐き出しかねない自分がいる。白血病と云う苦しみの中にいることで、本当のやさしさが言葉になったのだ。優しいは、人の憂いと書く。憂いを共有できるのが人のやさしさだと云うのだろう。又、「やさし」の語源は、「痩せる」だとも云う。己の身を細らせる時、やさしさしさが生まれると云うのだ。

今世界中が病の中にある。だからこそ生まれるやさしさがあるはずだ。本当の思いやりが、やさしさを生み出していかねばならない。多くの悲しみや苦しみを通り抜けてきた老いたる者がゆえに、やさしさの牽引者になれるのだ。それはコロナ感染ですさんだ世の中での老人の責任なのだ。見上げると、桜が満開だ。松尾芭蕉に、若い弟子と久しぶりに出会った時に詠んだ句がある。

命二つ中に生きたるさくらかな

他者との関係、濃厚接触の中で命が生まれる。桜の下、命二つの間の愛がたまさかの出会いを祝福するのだ。

やさしさを、胸にいっぱい吸い込みながら出会いの時を待ちたい。

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老人の自分を鼓舞しようと、4月初めに書いた原稿です。『明日の友』(婦人之友社)6月5日発売の巻頭に掲載されています。
桜吹雪の柳智之さんのイラストがとてもきれいです。是非、店頭でご覧下さい。

 

2020年6月1日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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