第160回 「ドキメンタリー和本」の周辺/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第160回 「ドキメンタリー和本」の周辺/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第160回 「ドキメンタリー和本」の周辺

2020年8月20日

8月の前半は、井上ひさし没後10年『東京人』11月号記念特集記事の執筆(担当は「井上ひさしと江戸」)に追われた。戯曲のDVDを見たり、江戸の黄表紙を読んだり、井上ひさしの世界を楽しませてもらった。

又、直木賞の「『手鎖心中』の選評が掲載された昭和47年10月号『オール読物』が手に入り、(執筆とはまったく関係ないが)久しぶりに同誌に掲載されていた川上宗薫にドキドキしたり、同時受賞の綱淵謙錠の『斬』を読み返して、コレラが話題になっていることを知ったり、ずいぶん回り道をして原稿を渡した。

井上ひさしの面白さを紹介しようとしたのだが、どうも暗部が浮き出るような井上ひさしの笑いの世界に違和感が残った。そして最後には、井上のパロディは<江戸の反吐>なんぞと書いて少し後味の悪い気持ちもした。

8月初めにYouTubeにアップされた東京古典会制作の「ドキメンタリー和本」は、そんな気分を一掃するものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=4uOZ21m_gIE

古本好きに格好の企画であることはもちろんだが、日本文学研究を志す若い諸君には、必見のものであろう。それのみならず日本文化に関心を寄せる多くの人に見てほしいものだ。

古本業界の裏側、入札会などは、とても見ることの出来ない世界、それを垣間見ていると、古典籍に魅入られた店主の情熱が伝わってくる。登場する店主の方にはすでに故人になった方もいらっしゃる。若い時、店先で色々教えてもらったことやお叱りを受けたことが浮かぶ。立教の野球部の部長だった頃お世話になった高林恒夫氏(東陽堂書店前店主)の懐かしい顔も登場する。

「流れていくものは文化ではない。」「じっくり本と付き合ってほしい」「本物に触れてほしい」「和本は宝の山」「古本屋は日本の文化の下支えの役割」「世界中を見てもこんなに手軽に数百年前の本が手に入るところは日本だけですよ」「平和であった江戸時代の所産」「江戸時代の識字率が和本を生んだ」

そんな店主の声は、浮薄に流れ、文系の基礎文献学を置き去りにしている現代の文化状況への鋭い批判も込められている。

紹介される古典籍も多彩である。

司会役は荒俣宏氏。中学生時代の和本との出会い。家蔵本『衆蟲寫眞図』(昆虫図鑑・江戸期写本)の細密さ、博物学、江戸学の奥深さを伝える荒俣節にひかれていく。

平安文学研究の泰斗中野幸一早稲田大学名誉教授の『伴大納言絵巻』入手の話も興味深い、絵巻の映りも実にいい。写本が原本を凌ぐ見本だ。

小生も江戸川乱歩がらみで登場している。(乱歩旧蔵本の整理にあたっていた頃だ。若かったものだ・・)乱歩のマニアックな収集癖にふれ、紹介しているのは、井原西鶴の『好色一代男』(乱歩本の中では抜群に高価、たぶん初刷り)・『盃席玉手妻』(宴席での手品の指南書・幕末に気球に乗った物語『白縫譚』・和本カード(購入時の値段入り)などだ。

新出本として衝撃的だった藤原公任写『古今和歌集』を古書店が購入した裏話など、文化研究の基層を思い起こす挿話も面白い。

絵巻の画像が伝えるビジュアルは、まさに現代サブカルチャーの源泉、奈良絵巻『大織冠』を実に美しい画像で再現。化粧をしない役者のプライベートな素顔と役者絵を並べた国貞画『夏の富士』、広重の『江戸名所百景』、明治期の草双紙など、江戸の文化を通観するにも格好なテキストとなろう。

日本最古の印刷物『百万塔 並相輪陀羅尼』・藤原定家自筆『寂然集』の美しさには、思わず画面を止めて見ほれた。グロテスクと云い得るような、窃盗犯平次郎の屍を解剖した記録『平次郎解剖図』(天明3年写)もこれで初めて見た。江戸時代の最大のベストセラー『江戸名所図会』、彩色のものはこれも初めてだ。

司馬遼太郎の一括買い・森鴎外の馬糞・夏目漱石の印譜と古本屋との出会いなど、文人と古書店主とのエピソードも面白い。
約1時間20分、かなりの時間だが、まったく長さを感じなかった。

見終わると、30代、五島の有川で鯨の図誌(いさなとりず)を旧家で発見した時のこと、同じ五島の青方で文書を見た時のこと。友人と対馬の宗家の庭で目録取りを行ったことなど、走馬灯のように浮かんだ。

たしかに、和本一冊をじっくり見ることも、書誌を取ることも、(ある時は自分にとって海水浴のようなものだと家の者に嘯き、夏休みになれば地方の図書館を歩いたものだった。)遠くにいってしまったような気がした。

古典籍の一文字を一日中ゆっくりながめ、「俺は文書読みはだめだ」と何度も嘆息しながら、解読に時間をかけたことも忘れていた。

コロナ禍、自分の原点を見直す機会をこのドキメントは与えてくれたようだ。落ち着いたらもう一度古本屋めぐりを初めからやり直そうと思う。・・・などと殊勝に考えていると、家人の声が飛んできた。

「段ボールの中の本整理してくださいよ・・虫が出てますよ」

 

2020年8月20日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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