第162回 子規『仰臥漫録』兆民『一年有半』附:佐川田昌俊消息翻字訂正  /前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第162回 子規『仰臥漫録』兆民『一年有半』附:佐川田昌俊消息翻字訂正  /前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第162回 子規『仰臥漫録』兆民『一年有半』附:佐川田昌俊消息翻字訂正  

2020年9月1日

どこにも出かけない異例の夏休み期間、夕方5時半から1時間ほど、近くの新河岸川の土手を自転車で乗り回すことにした。

土手そばの畑に、大きな糸瓜が棚にぶら下がっている。傍でお百姓さんが「もう水出ししなけりゃならん」などと独り言を云っているのを聞いて、正岡子規の句を思い出した。

「秋に形あらば糸瓜に似たるべし」(明治24年)

35度を超える暑さが続いたが、秋は近づいている。

家に帰って、子規の『仰臥漫録』を引っ張り出した。子規が死の直前まで記した日記としては、亡くなる二日前(明治35年9月17日)まで書き続けた『病牀六尺』が有名だが、『仰臥漫録』は、『病牀六尺』のように公刊を意識したものではない。それだけに『病牀六尺』のような精神の格闘といった記録ではなく、もっと生身の子規が出ている。凄惨な病中記であることに間違いはない。

体中蜂の巣の如く穴があき、痛烈な痛みにたえるカリエスの繃帯患部の取り換え、また一人になれば自殺を思う日々が続く。

そんな中でのすさまじいばかりの食欲に驚いた。

昼飯は連日のようにマグロとカツオの刺身。明治34年9月末日にこの月の支出が記載されているが、総支出額は32円72銭3厘、そのうち刺身代金が、6円15銭である。6円50銭の家賃とほぼ同額の刺身代ということになる。痛みに発狂し、又便秘に悩まされ、

「病人の息たえたえに秋の蚊帳」

といった最中の食欲である。
「食気ばかりどこまでも増長いたすべく候」とも記している。

陰鬱な気持ちになるのではないかと思っていたが、読み進むうちに同情心や病人への憐みなどと云った感情は消えていった。子規の貪欲ともいうべき<食>に引きずられるように読み進んだ。

「さしみは醤油をべたとつけてそれを飯または粥の上にかぶせて食う」のが子規の流儀だ。このあたりを読んでいると何となく自分との距離が近くなって嬉しい。あったかな白い飯に、たっぷり醤油をつけた刺身を酒の後の仕上げに食べるのは何ともうまいものだ。(だから太るのだ)

「棺の前にて空涙は無用の候」「戒名というもの用い候事無用に候」といった遺言を記した10月4日に、中江兆民の『一年有半』(兆民が、喉頭がんで余命1年半と宣告された折に書き残した遺書。)にふれ子規は次のように記す。

「1年有半の期限も大概は似たり候ことと存じ候 しかしながら居士はまだ美という事を少しも分らずそれだけわれらに劣り申すべく候」とあり、又、「1年有半は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物として流行し六版七版に及ぶ」などともある。

子規は兆民を嫌いだったのだろう。やっかみのようなものも感じるが、兆民は、死を前にしても「美」が分かっていないと云うのは、子規の文学者の気概というべきであろうか。

兆民の『一年有半』は、『仰臥漫録』執筆の明治34年に刊行され、初版1万部が3日で売り切れ、翌年までに20万部以上を売ったという大ベストセラーだ。

久しぶりにこれも読み返した。伊藤博文に対して、「口弁ありて一時を糊塗するに余りあり、しかれどもこれ要するに記室の才なり、翰林の能なり、宰相の資にあらず。・・・・総理大臣と為るに及んでは、ただ失敗あるのみにて一の成績なし、その器にあらざるを知るべし。」などとある。口先のごまかしはうまく、書記官としての才能はあるが、首相という器ではないというのである。

文中に激しい政治批判のあったことや、「余は断じて無仏、無神、無精魂」などの言葉は、記憶の底にあったが、文楽の興行へほとんど日をおかず通い詰めていることは忘れていた。越路太夫の忠臣蔵など、一月半に3度も聞いている。政治への悲憤慷慨とほとんど同じ感覚で浄瑠璃語りの名人芸に聞きほれているのである。

このブログを書いている途中から、40年ほど前、毎晩繰り返していた江古田の飲み会を思い出した。同僚が、中学の社会科の教科書に中江兆民の『三酔人経綸問答』を取り上げた時のことだ。先輩格で酒席のリーダー格だったS先生が、国語科は子規の『病牀六尺』を使おうと提案したのだ。その時は、そんな暗い遺書を中学生に使うのは面白くないと反対したのだが、今にして思えば、あのS先生の提案は、もっと深いところにあったに違いない。酔っぱらって、生徒の教科書を決めるなど、不埒と云えば云えぬこともないが、実に懐かしい思い出だ。

死を前にしての子規の食欲、兆民の浄瑠璃への沈潜。そして文学の理想、政治の理想。中学生にわからぬ話に違いはないが、わからぬことを耳の底に残すことも大事な教育かもしれない。
 
【追記】
前回のブログで、佐川田昌俊の消息を紹介したところ、多くの方からご意見をいただき、解読への疑義のご指摘も受けた。御教示に感謝し修正版を別記することにした。

「一 此状今晩早々八幡の豊蔵坊へもたせ
越可被申候
一 我ら明日ハ用事候て滞留申候間明後
乗物かき越候へと長左衛門ニ可被申付候
一 明日手樽并塩雲雀入候はこ早々
もたせ越候へと可被申付候留主之事ハ
長左衛門二申付候通ニ能々留主居申候へと
可被申付候 かしく

卯月廿三日(印 昌俊)」

豊蔵坊とは読みたかったのだが、今一つ確信が持てなかった。

「もたせ越候」は、私の誤読。「越候へ」ではきついと思ったが、私の誤読。やはり文書読みは避けたほうがいいようだ。写真版資料は前回161回ブログ参照。
https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/64998

尚尚、S先生の大目玉が飛んできそうだ。叩頭陳謝。
 
2020年9月1日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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