7月末、盛岡出張に合わせて花巻の高村山荘に足を運びました。

高村光太郎は、戦時中に文学界の重鎮として戦意高揚の詩を書き若者を戦地に送り込んだ自身の責任を問うべく、敗戦後、花巻郊外山口村の山林の粗末な小屋に移り住み、自らを厳しい自然環境の中に置き、独り質素な自炊生活を始めます。80年前の1945年10月のことです。このとき光太郎は63歳、ちょうど今の私と同じ年です。
元作業小屋という7坪半の狭いその小屋で、光太郎はその後7年間を過ごします。冬には枕元に雪が吹き込み、夏は虫害に、雨が降ると湿気に悩まされたといいます。後に上京の際に行われた自由学園での講話では、この湿気が肋間神経痛にひどくこたえたと語っています。一方で自然の中で心は解放され、村人や子どもたちとの温かい交流も生まれています。
詩作は行いましたが自ら本業と考えた彫刻は断念し、唯一「野兎の首」のブロンズ塑像が、光太郎の死後、囲炉裏の中から発見されています。「戦争責任」の引き受け方として異例なあり方です。一度この地を訪ねたいと思っていましたが、今回盛岡訪問に合わせてその念願がかないました。
私が高村光太郎に関心を持つのは、羽仁夫妻との関係が40数年の長きにわたり、吉一先生の逝去にあたっては光太郎が追悼の詩を贈るというその関係によります。かつて自由学園の卒業生たちも山口村の山荘に光太郎を訪れています。
花巻駅でレンタカーを借りて西へ20分ほどの山すそに、高村山荘と呼ばれるその住居と高村光太郎記念館はありました。受付棟でチケットを買うと、高村山荘は徒歩3分。保存のために小屋ごと套屋(うわや)で覆われており、係員はいないので見学の際は自分でその扉を開けて入ってくださいとのことでした。
案内図に従い小道を歩くとすぐに建物がありました。言われたように入り口の扉を開けると古い荒壁の建物があり、ガラス越しに、当時光太郎が寝起きした板敷部分と土間をのぞくことができました。

古く傷んだその狭い建物の様子から、光太郎がここで格闘した生活の空気感が生々しく伝わってきました。同時に、光太郎がここで戦中の自身のあり方を糾弾しつつ7年を過ごしたという事実が、今この時代から取り残されているような印象を受けました。
建物を出るとすぐ目の前に、その一画が、光太郎が農耕作業をしていた畑であることを示す立て札がありました。
東京に戻り、私は、光太郎がこの小屋で自身の生い立ちと歴史、戦争協力の事実を見つめて書いた詩集『典型』を読み直しました。その言葉は以前よりも実感をもって迫ってきました。
「山林」という詩には次のような言葉がありました。
己の暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
表題詩「典型」では、雪に覆われ静かに埋もれていく山の小屋に、「特殊国」日本の中で自我を折り、「愚劣の典型」として生き、自然の摂理としての制裁を受け止める自らを重ねています。
典型
今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに默りこむ。
小屋にゐるのは一つの典型、
一つの愚劣の典型だ。
三代を貫く特殊國の
特殊の倫理に鍛へられて、
内に反逆の鷲の翼を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みづから風切の自力をへし折り、
六十年の鐵の網に蓋はれて、
端坐肅服、
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし、
かなしいおのれの眞實を見て、
三列の羽さへ失ひ、
眼に暗緑の盲點をちらつかせ、
四方の壁の崩れた廃墟に
それでも静かに息をして
ただ前方の廣漠に向ふという
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋、
小屋を埋める愚直な雪、
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りにふる。
かつて既成の権力に抵抗し、「僕の前に道はない」と個人の自我を高らかに謳った光太郎が、戦争協力の詩作に突き進んでいったのはなぜなのか。
思想家の吉本隆明は「高村が反抗をうしなって、日本の庶民的な意志へと屈服していったとき、おそらく日本における近代的自我のもっともすぐれた典型がくずれさった」と述べ、「なぜ、日本でだけ、内部世界を確立し、たもちつづけるために至難の持続力が必要とされるのであろうか」(「高村光太郎 戦争期」)と問いかけています。この問いは決して過去の問いではないように思います。
1952年、光太郎は十和田湖畔の彫像制作のため上京します。当初は完成後には山口村の生活に戻るつもりでしたが、結核と体調の衰えからその願いはかないませんでした。
光太郎はこの小屋を気にかけ、手紙などで村人に小屋を守ってほしいと繰り返し伝えていたそうです。光太郎が亡くなった翌年1932年、村人たちはその遺志を継ぎ、木造の套屋(うわや)をかけ、その願いに応えます。現在の套屋はその20年後、1977年に新たに鉄骨造りで増築されたものです。
光太郎があばら家ともいえるこの小屋に執着したのはなぜなのか。それは愚劣な戦争に愚直な日本人が向かっていったかなしみの記憶を伝えなければいけないと考えたからではないかと思います。

そのように思うとき、詩人であり彫刻家であった高村光太郎が最後に残したかった作品は、一個人として、日本人として、自分自身の生き方を問うこの7年間の山口村での生活そのものであったのではないかと想像します。