久しぶりで白百合女子大で行われた近世文学会に参加した。懇親会の途中で失礼して、夜の深い緑に囲まれた白百合のキャンパスの門を出るころからたまらない気持ちになった。
彼がいたら、懇親会を途中で出ることはなかったであろう。
友、木越治君は、今年の3月に亡くなった。葬式で次のような弔辞を読んだ。ご家族の了解を得てその一文を載せる。
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木越君は、1948年11月金沢市で生まれました。71年金沢大学卒業後、東京大学大学院に進学、75年、武蔵高校教諭となり、同年10月に東京大学博士課程を中退、富山大学講師、83年金沢大学助教授、のち教授となり、96年には文学博士、2010年には上智大学教授となり、同大学を退職後は上智大学・武蔵中学などで非常勤講師をされておりました。
彼と初めて会ったのは、小学館の『日本国語大辞典』の出典検討のアルバイトをやっている時でした。71年、東大大学院に進まれた昭和46年の春であったと思います。彼が23歳の時です。私が26歳です。以来、47年もの付き合いです。その間おそらく1年以上会わなかった時はなかったでしょう。
アメリカ・ポーランド・中国など多くの旅を一緒にしましたが、最初の旅は、出会ってすぐの秋の高野山大学の近世文学会です。
彼は、1974年実践女子大学で「『春雨物語』の成立 ―稿本群の検討を通して―」を発表しています。学会デビューでした。これに続くように、私は翌年、「松平定綱と山鹿素行」を北海道大学で発表、二人で私の故郷函館を歩きました。その次の年は市古夏生君が「むさしあぶみ」を発表しました。
その後も彼は、学会発表を何度か行いました。殊に上田秋成研究では、学会の先端に居続けました。特筆すべきは、2008年の大東文化大学における、「『英草紙』第三篇をめぐって」の秀子夫人との共同発表です。
彼の学究態度の根本にあったのは、本文へのこだわりです。本文テキストの精緻な検討、実証性は、終始変わらぬものでしたが、その中でもいつもこだわっていたのは作品の「おもしろさ」でした。それは芸術性と言い換えてもいいものです。その結晶が不朽の1995年ペリカン社刊行の『秋成論』です。
一緒の仕事もいくつかあります。中でも思い出の多いのは、2003年八木書店から刊行された『米国議会図書館所蔵の日本古典籍目録』の作成でした。
アメリカの議会図書館の一室に未公開のまま所蔵されていた和古書の公開を目的としたものでした。予備調査を兼ね、ワシントンへ行ったのは1996年ですから、足掛け8年を費やしたものでした。最初の予備調査に行ったのは、木越君と市古君・揖斐高さん・成蹊大学院生のマークボーラー君と私でした。後には、沢井耐三さん、小峯和明さん等を加え、延べ数は40人を越えた調査でした。これを取り仕切った事務局は彼でした。調査の現場では野球帽をかぶり、ニヤニヤしながらわれわれの勝手な言い分を聞いていました。教員仲間では一番若い弟分でした。
対馬宗家の和書、新潟黒川村の和書などの調査でもそうでしたが、車の運転も事務局もいつも木越君でした。マージャン牌の持参も彼の役割でした。
昨年末、木越君からメイルがありました。「木越です。楽しみにしていた会なのですが、12月初めからひどい腰痛に悩まされています。・・・とても残念なのですが、暖かくなって体調が回復したらあらためて対戦と云うことで、今回は、とりあえず、取りやめということにさせてください。とても残念です。」
最近は、木越君の一人勝ちが続いていましたから、私は今度こそ敵を討ってやると思っていました。市古君も揖斐さんも微塵も症状が重いとは考えていませんでした。暖かくなったら昼飯を神田のうなぎ屋で済ませ、40年も続いてきたたわいのない会話を楽しむつもりでした。
しかし、暖かくなる前に彼は急に逝きました。
マージャン会に春は来ませんでした。
妙なことですが、揃って会ってもまず研究の話をしたことがありません。何を話したかを思い出せません。学会の話もまずありません。人の噂もほとんどしません。もちろん論争も喧嘩もありませんでした。年をとってからは家のことも大学のことも政治も話題にのぼりませんでした。
それが研究会や学会、さらに昔なじみの友達同士とも違うところです。
しかし、この友人関係が無くなるとすれば互いが学問から遠のく時だ、そう思っていたことは確かだったように思います。「論文を書かなくなったらこの付き合いはなくなる」そう思っていたことは、確かです。もう少し言葉を変えれば、好きなことをやっているんだという互いの自負、プライドが関係を続けたのだと思います。思想を越えた文学・芸術への共鳴が座に響いていたのです・・・。
「中学生を教えたいんだよ。中一がいいなあ」
そんな話をしていました。上智を退職した直後だったと思います。今年いっぱいで武蔵中学の非常勤を辞める時も「もう少し続けたいんだよね」と相談されました。
私と一緒だった武蔵の専任期間は半年ほどでしたが、「武蔵でブラスバンドの指導出来ないかね」とおどけたように、どこからか持ってきたスティックを机の上でたたいていたのを思い出します。
君が編集したラジカセの落語や講談のテープ、共に店に行き君が選んでくれたウォークマンには君の録音してくれた曲がいっぱい詰まっています。
映画も市古君と3人で見た、アニメ『夜は短し歩けよ乙女』が最後になりました。映画批評の時だけは向きになっていました。
亡くなったとの一報を受けた夜、胸の中に空洞が広がるようでたまりませんでした。多分もう麻雀をすることはないでしょう。学会へ行くことも遠のきそうです。映画時評も聞けません。下手な講談も聞けません。
訃報を受けた夜、しきりに瞼に浮かんだのは、木越君を金沢の家を訪ねた時のことです。故郷に作った家でした。森本でしたか、大場村と住所表記があったように思います。
朝食前に家の周りにあった田んぼ道を、幼かったお嬢さんと手をつないで歩いたことが眠れぬ夜に浮かんできたのです。突然です。まったく考えもしなかった思い出です。こんな風に故郷の大学で職を得て、子供たちを育てみどりの風に吹かれて朝の散歩をするんだ、そして夜は町の人と一緒に太鼓をたたく。そして、秋成のことを思うのだ。
あの時感じた羨望がこみあがると同時に、彼の魂が金沢の風に揺られているような気がしてなりませんでした。
上智に移ってからも金沢の市民講座を続けていたと聞いています。
何ともうらやましき人生です。
彼のブログには、当時小学校3年生だったお孫さんの「どうしてグランパパはグランママと結婚したの」と質問され、しばしためらった後に「この間の質問の答だけどね。グランパは、グランマと結婚すると、とても楽しい人生が送れると思ったからだよ。グランマも多分そうだと思う」と記しています。
逝くには早すぎたと云うかもしれません。しかし羨望に満ちた君の人生は研究者としても家庭人としても深く満ちたものでした。その余韻を私たちはしっかり嚙みしめ、もう少し君の残した足跡を楽しませてもらいます。
佐藤春夫の『あさましや漫筆』のなかにこんな文章があります。
秋成は日本のテオフイル・ゴオチェだと書き出し、
「文学は科学ではない。さうして、信義を高潮した叙事詩である。少年をして読ましめるにこれに越したものが国文学史上にさうあらうとも覚えない。」と記し、北原白秋の一首を引いています。
「さびしさに秋成が書(ふみ)よみさして 庭に出でたり白ぎくの花」と。
詩人ゴーチェは過剰なほどに潔癖でした。しかし潔癖さが具有する冷たさの人ではありませんでした。ロマンに生きた詩人ゴーチェは、家族のために詩を書き、その温かさは「やさしいテオ」と呼ばれました。その著、「青春の回廊」の中であったか、、、「何の役にも立たないものしか美しいものはない」と記しています。ゴーチェの神は芸術でありました。
音楽と文学をこよなく愛した君。
やさしき友よ。
上田秋成そしてゴーチェと共に眠れ。
(3月4日夜、音楽葬より帰り記す。)
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学会からの帰路、駅前の立ち飲み屋。彼の好きだった冷や奴で、ぬるいコップ酒をゆっくり飲んだ。今月、24日が秋成忌だったことを思い出した。南禅寺近くの冷たいおぼろ豆腐にはすこし早いかもしれない。西福寺の墓前で木越君がそちらに逝ったよと報告しようか・・・。
そりゃお節介だね。もう秋成に会っているに違いない。
2018年6月4日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)