9月21日、賢治忌に。賢治、光太郎、心平のこと。/学部長ブログ - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

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9月21日、賢治忌に。賢治、光太郎、心平のこと。

2025年9月23日

9月21日は賢治忌。1933年9月21日、宮沢賢治(1896-1933)は花巻の生家で息を引き取りました。37歳という若さでした。肺の病を抱え一進一退を繰り返し、死因は急性肺炎と言われています。

賢治は今でこそ多くの人に愛され読み継がれている作家ですが、生前はほとんど知られず、ほぼ無名のままの死でした。自費出版で1000部を刊行した唯一の詩集『心象スケツチ 春と修羅』(1924)は、当時その価値が認められず古本屋に500部が流されてしまったそうです。また唯一刊行された童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』(1924)もほとんど注目されませんでした。

では賢治はどのように世に出ることになったのか。

学生たちの卒業研究〈高村光太郎夫妻と羽仁夫妻の比較研究〉に関わっていることから、この夏、私は盛岡出張に合わせて花巻の高村山荘に足を運びました。https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/72317https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/72324

ここで高村光太郎(1883-1956)と賢治の関係に興味を持ち、賢治生家、羅須地人協会にも立ち寄りました。東京に戻り、今こうして賢治が世に知られるようになった経緯について調べ、新たに知ったことがいくつもありました。

高村山荘では当時無名だった宮沢賢治を世に出すために、詩人の草野心平(1903-1988)、高村光太郎が尽力したことを知りました。1924年に刊行された『春と修羅』を読み感銘を受けた心平は、翌1925年、自身が創刊するガリ版刷りの詩誌「銅鑼」の同人として賢治を誘い、賢治がこれに応えることで交流が始まっています。光太郎も心平に請われ、ここに作品を寄せています。今からちょうど100年前のことです。光太郎は42歳、賢治は29歳、そして2人をつないだ心平は、なんと22歳という若さです。さらにこの翌年、1926年に、賢治は一度だけ光太郎のアトリエを訪問し、2人の出会いが実現しています。

この縁から賢治逝去の翌年1月、心平は『宮沢賢治追悼』を刊行、さらに10月、共同編集者として『宮沢賢治全集』(文圃堂書店)の刊行を開始します。光太郎は生前3回、これらの賢治全集の装丁を行っています。彫刻家、詩人、ロダン等の翻訳者として、当時大きな影響力を持った光太郎が、賢治を世に広めるために尽くした貢献も大きなものでした。

光太郎は羽仁夫妻の『婦人之友』に多くの文章を寄せていますが、その中の一つに「宮沢賢治の詩」という文章がありました。賢治の逝去から5年後の1938年3月号、「新日本娘読本」という企画に応えての文章です。賢治が妹トシの死と別れを書いた「永訣の朝」「松の針」の詩の全文を紹介し詳しく解説を加えており、光太郎が賢治を高く評価していたことがわかります。冒頭は次のような言葉で始まります。

(婦人之友1938年3月号)

「こんなにまことの籠った、うつくしい詩が又とあるだらうか。この詩を書きうつしているうちに私は自然と浄らかな涙に洗はれる気がした。これは、妹の死を書いた、岩手県花巻の宮沢賢治という日本に珍しい立派な詩人の詩である。殆ど世に知られずに彼自身も既に死んでしまった。」

この後、二つの詩について語り、賢治の人物像と作品の価値を語ります。

「彼は尨大な夢を有ち、真の意味における科学者の『魂』の所有者であり、宇宙自然の機微に参入し、殆ど無我の大にまで到達した一個の全球体を成す人間であった。かかる人間が又幸いにも言葉の世界に異常な才能を持って生まれたのである。」

「しかもその作の真価の発揚はすべて未来に属する。此處に埋蔵されてゐる美と真理とはまだ世人の眼と理解とに十分届いてゐない。」

「新日本の娘たちに日本の詩について語れといふ依頼をうけて、敢えて此の無名に近い一詩人について私が語るのは、過去よりも未来に多くの実りを持ちたいといふ私の心に他ならない。」

そして最後に、「その為人(ひととなり)を知るに最も好適」なものとして、「小さな古い手帖の中に書き残された言葉」、「雨ニモマケズ・・・」の全文を紹介しています。

このように光太郎は惜しみない賛辞を賢治に送っていますが、光太郎に賢治の価値を熱く語り、このような思いに至らせるきっかけを作ったのは草野心平でした。

草野心平は現在の福島県いわき市小川町の生まれですが、同じ小川町生まれの私の義姉によると、かつて大人たちが語る心平の地元での評価は、酒飲みの厄介者といった印象だったとのことでした。しかし高く賢治を評価し熱心にその紹介に力を注いだ草野心平がいなかったら、賢治の評価は今とは違ったものになっていたのではないかと思います。

しかしそもそも、今のように情報入手が容易ではない時代に、岩手の無名の若者の自費出版の詩集がどのような経緯で草野心平の目にとまることになったのか。これはとても不思議なことでした。草野は福島県いわきの出身であり、賢治と同郷というわけでもありません。しかも『春と修羅』が出版されたときに、心平は中国広東州の嶺南大学に留学中でした。あちらこちらと調べているうちに、北条常久さん、佐藤竜一さんの著作に出会い、ここには今はほとんど知られていない二人の人物が関わっていることを知りました。これについてはあらためて紹介したいと思います。

光太郎が「真の意味における科学者の『魂』の所有者であり」、同時に「言葉の世界に異常な才能を持って生まれた」人物と評した宮沢賢治。その賢治による人類の進化の壮大なビジョンが、「農民芸術概論綱要」という文章に記されています。「農民芸術概論綱要」は羅須地人協会での講義のために書かれたものと言われていますが、賢治の思想のエッセンスともいえる素晴らしい内容です。「序論」と「農民芸術の綜合」の一部を紹介します。

花巻農業高等学校横に復元・移転されている「羅須地人協会」。

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農民芸術概論綱要 宮沢賢治

 序論 

・・・われらはいっしょにこれから何を論ずるか・・・

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 農民芸術の綜合

・・・おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか・・・

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

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「おお朋だちよ」という呼びかけはベートヴェンの歓喜の歌も思わせます。

「かがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」というモチーフは、「おきなぐさ」というかわいらしい童話では、銀の綿毛を付けた小さな種たちが、空高く散っていく場面として表されています。小さくてもそれぞれが美しく輝き、同時にその小さな命が、散り散りになって自己を超え、死をも超えて、どこかの地で大きな命の連鎖の中に再生されていく。そのような喜びと希望が暗示された作品です。

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり 
 みのりに棄てばうれしからまし

賢治の辞世の歌にもこの思いが込められているように思います。

賢治、光太郎、心平という年齢も背景も異なる3人の詩人が、互いに芸術家としての魂を響き合わせたことに美しさを感じます。『銅鑼』の同人として賢治を招いた心平ですが、生前2人が顔を合わせる機会はありませんでした。

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