「どうか人間の生地をつくりたい」―羽仁恵子先生のお誕生日に―/学部長ブログ - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

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「どうか人間の生地をつくりたい」―羽仁恵子先生のお誕生日に―

2026年6月9日

今日は羽仁恵子先生のお誕生日です。創立者の三女である恵子先生は、1908年6月9日にお生まれになりました。お二人の創立者がお亡くなりになった後、学園長の任を引き継がれ、32年の長きにわたって自由学園の教育を守り続けてこられた方です。

『南沢だより』より 創立者と恵子先生

1974年に中学から自由学園で10年間学んだ私は、恵子先生による入学宣言によって迎えられ、1984年3月の卒業式をもって送り出していただきました。その年の半ばに恵子先生は体調を崩されて静養に入られたため、卒業式に立たれたのは1984年が最後となりました。そのような意味で、私たちのクラスは恵子先生の教師生活最後の10年間、ご指導いただいたクラスということになります。問題の多かった当時の男子部を思い返すと、さまざまなご心労をおかけしたことを申し訳なく思います。

恵子先生がお亡くなりになった翌年の1990年、先生が学園長時代に『婦人之友』にお書きになった文章が『南沢だより』として一冊にまとめられ、婦人之友社から刊行されました。私は学園長時代に恵子先生の思想を学びたいと思い、この本を何度も読ませていただきました。羽仁もと子先生、羽仁吉一先生から託された自由学園を守り発展させるという使命を担われた恵子先生の、深い思いと信仰に満ちた文章が数多く収められています。また、イギリスで学ばれた先生は英文学への造詣も深く、豊かな文学性と思想性を感じさせる文章も少なくありません。

その中で、恵子先生が繰り返し書いておられたのは、「自由学園はキリストを唯一人の先生とする学校である」ということでした。そして自由学園の最終目的は、「救い主キリストに従って、地をば神の国となさんということ」であると語っておられます。これは生徒時代に私自身が、恵子先生から何度も聞いた言葉でした。その当時は意味を十分に理解できず、どこか浮世離れした言葉のように感じていました。しかし後に学園長として自由学園の教育の意味を考えるようになったとき、恵子先生の文章に触れ、これこそが揺るぎない自由学園の教育目標なのだと確信することができました。

今回私は、私の在学中に恵子先生はどのような文章を書いておられたのだろうかという、これまでとは少し異なる視点からこの本を読み返してみました。するとそこには、私たち生徒を温かく見守る恵子先生のまなざしが確かにあることに気づかされました。

私たちは中学に入学したその年、二泊三日の恒例行事である登山で南アルプスの鳳凰三山縦走を行いました。幼い一年生にとっては非常に過酷な行程だったことを覚えています。その登山を終えて学校へ戻った私たちの姿を、恵子先生は次のように記してくださっています。

「・・・駅の方から男子部普通科の生徒たち百人ほどが、鳳凰三山縦走をなしとげて帰って来た。三日前の日の出の頃にこの門から送り出した時は、新入の一年生など、からだも細く、大きなリックサックにつぶされそうに見えたのが、顔もひきしまり、足どりにも何か力が入ったようにしっかりとし、白い帽子の列をきちんと整えて帰って来た。・・・こんなに規律正しく、そしてかわいらしいまでの素直な様子で帰って来たのは、心から励まされた。」

鳳凰三山縦走に向かう朝。見送ってくださる恵子先生(1974年)

また、中等科二年生のときには、エリザベス女王来日に際して迎賓館近くの沿道に並んだ出来事についても記されていました。熱烈な英国びいきであった恵子先生らしい文章です。

しかし、私がこの一冊の中で最も恵子先生らしさを感じ、その時のことを印象深く思い起こすのは、中等科三年生の体操会について書かれた「嬉しかったこと」という文章です。

恵子先生は、「どうか人間の生地をつくりたい」という教育への願いを抱きながらも、日々の中では失望を感じることが少なくなかったと率直に書いておられます。そのような中で迎えた体操会のボール体操で、二つのボールが落ちる出来事がありました。

ボール体操練習風景

「最前列の誰かがボールを取り落した。私たちは一瞬ハッとしているうちに、その少し離れたところでまたもう一つボールが落ちた。ボールが落ちることは練習中にもよくあって、落した人がはずかしそうにコソコソ拾いにゆく光景は時々見てきていた。

ところがはじめのボールが、転がって来たのに気づいた人がそれをすばやく、転がって来たらしい方向にむかって、芝生の上にころがしかえした。私は落し主が拾った瞬間を見なかったけれど、それはすぐ拾い上げられたらしい。また、もう一つのボールの転がって来たのは、列の間であったためか誰も気がつかない、フッと見るとボールを落した人は最前列で、その手にボールはないのに、少しも慌てず、わるびれず、ボールなしで、あたかもボールがあるように、ほうり上げる時は、そちらを仰いで、百三十人余の美しい躍動の中で、キラキラと太陽の輝く青空を見あげ、次の瞬間には両手で、丸くボールを受けるように、実に力づよく躍っているのである。そして、その次の列、さらにその次の列のボールが、噴水の水が勢いよくのぼり、また落ちるように、素手で躍動しているこの人の動きとピッタリと合って少しの隙もない。ほんとうに頼もしく心が躍るようであった。どんどんと運動は進行して最後になり、伴奏のピアノがとまった。その時刻四千人にもなっていた学園の生徒、卒業生その家族の方々の拍手のうちに、退場となった。ボールが一つ芝生の上に残るのではとの不安が一瞬心をかすめて通った。

しかし次の瞬間、自分の近くに一つのボールがあるのに気づいた一人が、さりげなくそれを拾いあげ、両手に一つずつもって、何事もなかったように軽やかに馳け足で、波が引くように舞台である大芝生を去ってゆく水色の列の一点として消えていった。」

会場のほとんどの人が気づかなかったほどの小さな出来事でしたが、恵子先生はこの三人の行動に深く心を動かされました。体操会は技術を競う場ではなく、「人としてのまごころのこもった正しい生き方を学ぶ場面」であると考えておられたからです。そしてその日の夕刻、全校生徒が集まった場で、これを「一ばん嬉しかったこと」として紹介し、三人に拍手を送られました。

恵子先生が見ておられたのは、体操の出来栄えではなく、私たちの心のあり方、思いやりや責任感、人としての美しさだったのだと思います。

「どうか人間の生地をつくりたい」。

その願いを生涯持ち続け、生徒たちの中に芽生える誠実さや心ある小さな行動を見逃さずに喜ばれた恵子先生。その温かく深いまなざしを、先生のお誕生日にあらためて思い起こしています。

『南沢だより』より (1979年撮影)

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