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理事長の挨拶
教育の真の目的とは?
市岡 揚一郎

前文
 今、日本の多くの人々は、「学力の向上」を教育のほとんどすべてと思い込んでいる節があります。それも「学力」のほとんどは、大人の用意した試験ドリルを記憶することに明け暮れる「覚える力」と考えられているのではないでしょうか。教育の真の目的は、さまざまな経験を通じ自分の頭で物事を考え、自分の責任で行動していく力を付けさせることです。
 そして現代の教育は、自然と関わる大切さを忘れつつあります。自然との関わり合いでは、異質なものに遭遇する、予期しない出来事が起きる、自分一人の力ではさしたることはできない――など、多くを知ることができます。
 自由学園は創立以来、「生活即教育」を基本理念としてきました。勉強の機会は机の前だけではなく、生徒や学生が過ごす24時間すべての中にあるという考え方です。その教育は、10万㎡のキャンパスなしでは実現しません。私たちは、この「生活即教育」を幼児から大学生にいたるまで一貫させ、社会を良くするために自分が何を貢献できるかを考えることのできる人材を送り出していきたいと願っています。



無記名の知識
 「偏差値教育がなぜいけないのでしょうか」とお子さんを持つ男性から聞かれたことがあります。「偏差値の向上を目指して学校が子どもの学力を高め、お互いに競争するのは少しも悪いことではないではないか」と言いたげでした。それに対して、「知識量を増やして有名上級校に進学する生徒を多くしようとする心情は理解できなくもないが、それはあくまでも『偏差値対策』と言うべきで、どうか『教育』という言葉を付けないでほしい」と答えました。偏差値を高め、自校の世間的な評価を高めることは、生き残りたいというその学校の事情によるもので、教育でも何でもありません。
 さらに言うなら、世の中では「教育とは学力をつけること」とみなしている人が多いように思えます。「(子どもたち、あるいは学生たちの)学力がなっていない。いまの教育はどうなっているのか」という批判をあちこちで耳にするからです。
 しかし、学力の向上は教育の大事な部分ですが、一部分でしかありません。しかも、現代の教育は「学力向上」の中の「覚える力」にウェイトをかけすぎていないでしょうか。学力とは文字通り「学ぶ力」であるべきで、「覚える力」だけではありません。ドリルの裏側にある、大人の用意した「正解」をいち早く、できるだけたくさん引き出す能力は、「学力」(ガクリョク)と呼ぶよりも、濁点のない「覚力」(カクリョク)と表現すべきでしょう。
 現代の教育は、机の前で知識を頭に詰め込む「覚力」にウェイトが掛かりすぎている。その結果、何が起きるか。
 机の前で覚える知識はみな一様です。太郎君が覚える三角関数sinθのh分のaが、花子さんになるとsinではなくbinになることなどありませんし、h分のaがq分のeになることもありません。知識は机の前だけで覚えている限り、個人の体験や経験、軌跡とは無関係の、無記名の記憶でしかないのです。無記名の知識を詰め込む「教育」を受けて成長期の大半を消費したら、頭の中に入ったデータは、自分のものでもあり、自分のものでもない、太郎君も花子さんも持つ画一的なものになってしまうことでしょう。そうすると、後はその量を増やし続けて自分が自分であることを競うしかない。
 たとえば外に出てそびえ立つ木の高さを測るときに三角関数を用いたらどうでしょう。その瞬間、三角関数は個人の記憶となるはずです。
 そのような経験に裏付けられないデータを頭の中に詰め込んだ子どもや学生たちがどうなるかと言えば、自分が自分であることを確かめられなくなり、アイデンティティを喪失し、自分を愛せなくなってしまうおそれがあります。自分を愛せなくなった子どもたちは、他人を愛することもできません。
 知識の詰め込み競争に敗れた子どもたちは「自分は駄目な人間なのだ」と思い込む。「覚力の向上」を目指す教育がたくさんの脱落者を生み、その結果、学力のますますの低下現象を生んでいるとしたら、まことに皮肉なことと言うべきでしょう。

1章 無記名の知識1
1章 無記名の知識2


自然との関わりあい
 それでは、教育とは何か。
 それは、さまざまな経験を通じ、自分の頭で物事を考え、自分の責任で行動していく力を付けさせることです。
 その場合に最も大切なのは、自然との触れ合いです。たまの休日に「自然との触れ合い」を楽しむのも悪くはありませんが、本当はできるだけ長い時間、自然の中に子どもたちを置くことが大切です。できたら自然の中で生活させることです。
 自然とかかわると次の4つのことに遭遇します。
(1) 異質の物と出会う。中には嫌なものもある。
(2) 予期しない出来事が発生する。第一、天候を自由にはできない。
(3) 一人の人間が何でもできなくてはならない。都市は人と人との分業によって成立し、発展したが、
   自然の中では「私は種まきは出来るけれど、木を切ることはできない」などとは言っていられない。
(4) 自分一人だけでは生きていられないことを発見する。人との協力が生きていくうえでの大前提となる。
 現代人は都市型人間になりすぎていて、異物を極端に怖がります。虫などが出てきたら悲鳴をあげて逃げ回るし、異臭に異常なほど敏感になっている。「臭気鑑定士」などという妙な名前の職業が生まれ、匂いを嗅ぎ回る。臭いを排除するから、ますます嗅覚は敏感になり、また新たな臭いを発見する、という悪循環に陥っています。自分で苦労して物を作ることをしないで、コンビニで買い物でもするように、便利な出来合いの物を求めます。気の合わない人を遠ざけ、メールで気に入った人とだけのコミュニケーションに逃げ込んでいます。そうやって育った若者を叱ると、すぐに切れてしまい、「人格を傷つけられた」として会社を辞めてしまいます。
 予期しない変化を嫌がるから、猫も杓子もマニュアルを求めたがる。予期しない変化が生じると、途方に暮れる。いまの日本の社会自体がそれかもしれません。


生活即教育
 自由学園は、その成り立ちからキリスト教精神に基づいて、「生活即教育」を基本的な教育理念にしてきました。教育とは、机の前での教育だけではなく、生徒や学生たちが過ごす24時間が教育の場であると考えてきたのです。
 そして、その「生活即教育」の場は、10万㎡に及ぶ広いキャンパスです。自然豊かなキャンパス内には小川も流れ、樹木がおよそ4千本あります。生徒や学生は自分たちの手でこのキャンパスを掃除し、管理しています。地方からの生徒や学生が暮らす寮も、この中にあります。もし、自由学園のキャンパスが都心のコンクリートの中にあったら、「生活即教育」は成り立たないことでしょう。
 幼稚園に相当する幼児生活団から初等部―中等科―高等科―大学に相当する最高学部にいたるまで、自由学園の生徒や学生たちはこのキャンパスで一貫した「生活即教育」を受けています。できるだけいろいろなことを経験し、自分の頭で物事を考え、互いに協力する精神を養おうとしています。
 こうしたことを通じて、社会を少しでも良くするためには自分に何ができるかを考えることのできる人間を育てたい
――自由学園はそう願っているのです。


講演会での話
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