7月13日(土)は、記念講堂で7月の「みんなの日」が行われ、LA生117名(うちZoom参加2名)が参加した。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌276番「神はわがやぐら」を賛美した。
<「忘れられない人々」4期生・織原文子さん>
「みんなの日」恒例の「忘れられない人々」は、4期生の織原文子さんがご自分のお祖父さまが秘書をしていた渋沢栄一についてお話された。
新しい1万円札に肖像が描かれている渋沢栄一。私の祖父は早大の学生時代に渋沢の講演を聞いたことがきっかけで、大学を中退して渋沢の長女歌子の家に住み込んで書生として渋沢事務所に入り、その後渋沢が亡くなるまで秘書として働いた。NHK朝ドラ「虎に翼」で寅子を助けた穂高教授のモデル・穂積重遠は歌子の子どもで渋沢栄一の孫だ。
「資本主義の父」と呼ばれる渋沢は、約500もの企業に関わった。それと同時に資本主義では、否応なしに持つ者・持たざる者が生まれ、網目からこぼれる弱者が生まれることを認識して稼いだ金を約600の社会公共事業・教育機関の支援に充てることで経済を廻すことを考えた。侍ジャパンの栗山監督の愛読書は渋沢の書いた『論語と算盤』で、日本ハム時代に栗山監督から指導を受けた大谷翔平も本のなかに書かれている慈愛・忠恕(真心と思いやり)を中心とした渋沢イズムがその言動の中に垣間見える。渋沢は一方でお妾さんを持つなどフットワークの軽い方だったそうだ。皆さんのお財布の中に渋沢の紙幣が入ってきたときには、フット-ワーク軽くそれが外に出ていかないように心していただくことを最後にお伝えする。
<教養講座『若き日の羽仁夫妻と自由学園の教育』村上 民さん>要約
今年度3回目の教養講座は、自由学園資料室の村上民さんが『若き日の羽仁夫妻と自由学園の教育-出版事業から教育事業へ、学校から社会へ-』と題して、お話をされた。
1)出版事業(婦人雑誌)から教育事業(自由学園)へ 羽仁夫妻の問題意識
羽仁もと子は17歳で盛岡から上京し、明治女学校卒業後、一度教職についたり結婚に失敗するなどの経験を経て、1897年頃 報知新聞社入社。一方、羽仁吉一はもと子の7歳年下で、地元山口の私立中学を中途退学後、執筆・編集などの経験を経て、1900年報知新聞社に入社。報知新聞社で出会った2人は、当時は許されなかった社内結婚をしたために、2人共に新聞社を辞めて、吉一は新潟の高田新聞社に移らざるを得なかった。
1903年内外出版協会から『家庭之友』を創刊、2人で執筆・編集を行い自らの事業を開始した。羽仁夫妻の関心の中心は、当時まだ弱い立場にあった女性に対する教育と組織化にあった。それ故に雑誌には①家事・育児・教育を科学的・合理的に行う提案、②女性読者からの身の上相談、③学校教育に限定されない女性の学びの継続と仲間づくり・社会活動の足場づくりの特徴が見られる。
1906年新雑誌創刊の多忙な日々を過ごす中で次女凉子の病死を経験することで、2人は自らの信仰と生き方を問い直すことになる。内外出版協会から独立して1909年には婦人之友社を設立し『婦人之友』の出版を開始。1914年頃から会社に富士見町教会の植村正久牧師を招いて、日曜礼拝を開いた。そして1921年に信仰に基づく新しい事業として学校を設立することになる。
2)学校の設立
1921年現在自由学園明日館のある西池袋で高等女学校相当の自由学園を創立。設立申請書には設立目的として「新時代ノ女性トシテ必要ナル教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と書かれていて、高等女学校令に拠らない各種学校の道を選んだ。各種学校を選んだ理由として、①宗教教育禁止からの自由、②高等女学校令(家族制度の維持・婦徳の涵養をさらに強調)からの自由が考えられる。外国宣教団体や大口寄付などの財政支援を受けることなく、私財を投げうって始まった。
自由学園の教育方針は、学校を1つの家庭、社会と考えて、それも新しい家庭、新しい社会の在り方を学校生活を通して経験することで、「新しい時代」を主体的に生きる意志と判断力を備えた女性を育てることにあった。この方針に沿って行われた教育には次のような特徴があった。①時間割に「実際科」(週5時間、午前の最後)を設けて、昼食づくり、労作、自治区域、園芸などを5~6名による家族を単位として交代で行った。家族は当時の家族像とは違う上下関係、役割の固定化なしの新しい家族のあり方であった。②教師の生徒への接し方は「早春の百花千草の芽のやうに、のびやうのびやうとして子供の頭の中に動いてゐる様々な働きに、親切な園丁のやうなあたたかい導きの手を与へてやる」を目指していた。そのため、教員資格にこだわらず、各分野の専門家を招くこともあった。③学んだことを鵜呑みにせず、自分の言葉と身体をもって表現することを大切にした。試行錯誤をして自分のノートをつくることや、学んだことを自分の言葉で発表する機会を大切にした。
信仰に基づいて始めた学校ではあったが、生徒がどのようにキリストに出会うことができるかについて配慮して、創立当初には決まった形の礼拝や聖書を学ぶ授業はなかった。1923年頃からようやく朝の礼拝が定着し、1924年からは高倉徳太郎を指導者として招いている。
国内でも新しい教育が多方面で開始されている中で、自由教育は宗教(キリスト教)を基盤にしなければ相対主義に陥ることを明確に主張していった。
3)学校から社会へ 教育を通じて新しい社会をつくりだす
「実際科」など生活を通して学んだことを、社会でどのように生かしていったらよいかということを考え始めている矢先、1923年関東大震災が起こり、その震災支援活動に参加する機会が与えられた。これが自由学園で学んだことを社会のために役立てる活動の始まりとなった。1920年代後半には、卒業生によって消費組合、移転先の久留米村農村セットルメント、工芸研究所といった社会活動のためのグループが結成されていった。
1931年に創立10周年を迎え、それまで行ってきた自由学園の教育を広く社会に公開し、多くの人たちに教育の機会を広げる運動=大学拡張運動が意識されるようになった。そして卒業生によって始められた活動を生涯をかけて学び、協働して社会活動をする大学共同体として再編成し「生活大学」とすることが考えられた。しかしこの構想は戦争に突入することで数年で頓挫して、構想で終わっている。そのような過去の歴史を持つ自由学園で、生涯学び続ける場としてリビングアカデミーが始まっている。この未完の構想をもう一度振り返ることを考えていただきたいと思う。
教養講座終了後、LA賛歌を皆で歌った。
<諸報告>
①緊急時のグループメンバーの確認について
②みんなの掲示板の場所と掲載のルールの説明
報告後、体操選択クラスの渡邉恭子先生のご指導で、その場で出来る生活体操で体をほぐした。
<昼食・自己紹介>
昼食は、初等部食堂でお皿に各テーブルで盛り付けをしていただく。
メニューは、海老ピラフ、つるむらさきのサラダ、ベイクドポテト、ミニトマト。
キャンパス内のLAの畑で獲れたつるむらさきをサラダに、じゃがいもをベイクドポテトに、ピーマンを海老ピラフに使った。
昼食をいただきながら、4月に入学した9期生4名の方の自己紹介(第3回)を伺う。
その後、自主活動の報告などがあった。
<午後の集い:タッピングタッチ>
午後1時15分から、初等部食堂で男女分かれて座っていただいて、タッピングタッチを認定インストラクターの中田利恵さん(自由学園の元保護者)に教えていただいた。
一人で行うエルフタッピングに続いて、2人で行うタッピングタッチを教えていただく。
①タッピングタッチを行うために2人が前後に座る。
②前の人の肩甲骨の内側に後ろの人が軽く手を添えて「これから始めます」と言ってスタート。
③肩甲骨の内側から背骨の両脇をだんだんと下に向かって、指先の腹で左右交互にタッピングをする。
④後ろの人は立って「象の鼻」のように腕をブランとして、左右交互に振りながら、手の甲を目の人の腰あたりに当てる。
⑤立ったままで、肩、腕、首、頭をタッピングをしていく。
⑥後ろの人も座って、手を軽くまるめて猫がその場で足踏みをするように、前の人の背中をタッピングする。
⑦一通りできたので、相手のしてほしいところを追加してタッピングする。
⑧柔らかい手のひらで左右に触れる「ソフトタッチ」をして、最後に肩甲骨の内側に手を添えてから、背中や腕を気持ちよく何度かさすって終了。
体の緊張がほぐれ、心がリラックスして、自然に笑顔が溢れていた。