「牧野富太郎、「絶対の探求」と「人間的魅力」」/前学園長ブログ - 一貫教育の【自由学園】/ 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上

「牧野富太郎、「絶対の探求」と「人間的魅力」」/前学園長ブログ - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】

前学園長ブログ

「牧野富太郎、「絶対の探求」と「人間的魅力」」

2023年9月30日

今週完結となるNHKの朝ドラ『らんまん』。私は牧野富太郎については、その図鑑を通してしか知りませんでしたが、最近、知人に「渋谷章さんの『牧野富太郎―私は草木の精である』、面白い本ですよ。荒俣宏さんの解説に自由学園の名前も出てますよ」と教えていただき、この本を手に取りました。

自分が自分自身の心の声に徹底して忠実に生きるとき、人生がどのように切り拓かれていくかという1つの実例が、牧野富太郎を通じて示されており、そこに近代化に向かう日本の時代背景も重なり、とても興味深く面白い一冊でした。

学制発布により牧野富太郎が小学校に入学するのは12歳。しかし間も無く自主退学します。

この小学校退学について筆者の渋谷さんは「牧野富太郎が小学校をやめたのは、そこで学問が行われていたためにではなく、学問が行われていなかったためであったことは明らかであろう」と書いています。

牧野富太郎は学校で満たされることがなかった探究心を、自然の中での植物観察と膨大な読書、出会いを通じた学びによって満たしていきます。

10代半ばで入手した全20巻の『重訂本草綱目啓蒙』を読み込んで植物に関する知識を得ると、次々に植物研究のための本を買い込み、独学で学び続けたとのこと。知識の基盤がここにあったと知りました。

またこのとんでもない読書力、知識獲得の土台に、小学校入学以前の私塾や藩校での漢籍、漢文教育により培われた力があったという指摘にはなるほどと思いました。

牧野富太郎は95歳で亡くなりますが、植物研究に邁進した生活が、豊かな実家の財源により支えられていたのは30歳まで。その後、常に莫大な借金を抱えつつも、それに心を折られることなく植物への探求を続ける様子は驚きでした。

月給10数円に対し、借金が50円、2000円、さらに3万円と「天文学的数字」に膨らみ続けながら、その時々にそれを肩代わりする支援者が現れたことも驚きです。

渋谷さんは、これを可能にしたのは牧野富太郎が「絶対の探求」の姿勢と共に、「人間的魅力」を持っていたためと評しています。様々な確執のあった東京帝国大学での人間関係、妻寿衛子への深い愛情と信頼の描写からも牧野富太郎の人間的魅力が伝わってきました。

寿衛子さんの死に際して、発見したばかりの新種の笹の学名を「スエコザサ」とし、墓碑に「家守りし妻の恵みやわが学び世の中にあらん限りやスエコ笹」と歌を刻んだというエピソードは心に沁みました。

この本は牧野富太郎の「人間的魅力」に満ちた一冊でした。

なおこの『牧野富太郎―私は草木の精である』の初版は1987年にリブロポートから出され、2022年に平凡社ライブラリーの一冊として復刻されました。平凡社版には荒俣宏さんの解説が新たに加わったています。

その解説の中、荒俣さんは、本文の牧野富太郎と南方熊楠の対立関係を引き合いに、「篠遠喜人」との信頼関係について触れています。

戦争最末期の1945年、83歳の牧野富太郎は植物標本と共に東大泉の家で死ぬ覚悟を固めていたそうです。しかし標本館の一部が爆撃に合うなどいよいよ命の危険が迫ったときに、疎開先を山梨に用意し、牧野富太郎を説得し疎開させたのが「牧野に植物学科学生として世話になったことのある篠遠喜人(のち遺伝学者として名を上げる東大教授)」です。

なぜ牧野富太郎は30も年下の篠遠喜人の言葉に耳を傾け、疎開を決心したのか。

荒俣さんは「喜人博士は実は東大の官僚指向になじめず、敬虔なキリスト教徒であったことから国際基督教大学の創立に参加したり、息子さんたちを自由学園に入学させたりするお人であったとのこと。とすれば、生活態度のキチンとした礼を失しない誠実な人物に対しては、牧野富太郎も素直に意見を聞きいれざるを得なかった、といえるかもしれない。」(232頁)と記しています。

篠遠喜人博士は当時お子さんたちを初等部から自由学園に託し、長く自由学園を応援してくださっていました。

牧野富太郎は戦前1937年に自由学園を訪れ、男子部生徒たちにご自身のご生涯について詳しく語ってくださっています。

この話を男子部中等科に進学したばかりの篠遠博士のお子さんのお1人、篠遠喜彦さんも聞いていると思われます。

篠遠喜彦さんは、男子部時代に学園内の縄文遺跡の発掘に取り組んだことから考古学研究に目覚め、卒業後は日本考古学研究所などを経て、ハワイのビショップ博物館を拠点にポリネシア考古学に取り組み、その分野の探求者・開拓者として活躍されました。

荒俣さんはこの篠遠喜彦さんの取り組みとポリネシアン考古学を紹介する『楽園考古学』も執筆されています。

牧野富太郎の話を喜彦少年がどのような思いで聞いたのか。荒俣さんの解説の文章から、この2人の探求者の不思議な繋がりを想像しました。

高橋和也Facebook 2023年9月27日

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