「あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」。新年礼拝でお話しした内容の後半です。
子どもの頃から長く疑問に思っていたイエスの「暴力的行為」を伝える聖書箇所「宮清め」。昨年、この箇所の新たな読み方に触れ、とても納得しました。
「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」
ヨハネ2章13-16節
私が自由学園に入学する時、母が買って持たせてくれた聖書には小磯良平による挿絵が入っていて、よく眺めていました。その中で最も印象に残ったシーンも、イエスが神殿で鞭を振うこのシーンでした。
神の愛を伝えるイエスの暴力的な振る舞いは、まったく理解できないものでした。
過越祭には多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を目指してやってきました。境内では神殿内で使われる通貨への両替や捧げ物の動物の販売が行なわれており、それを扱う商人たちは、参拝者相手に法外な価格で利益を上げていたと言われます。
民衆相手のこのような行為に怒りが向けられることは想像ができます。しかしだからといって暴力的であってよいとは思えませんでした。
この箇所について理解が深まったのは、神学者エックハルトの解説によってです。
エックハルトは、イエスは、神が宿る場所である神殿に一切の雑物を持ち込むことを拒絶したと説明しています。
そしてその神殿とは建物のことではなく、神を迎える私たち一人ひとりの魂を意味すると述べ、大切なのは魂を「空」の状態にして神と出会うことといいます。
つまり「商人たち」が取り次ぐような「捧げ物」を用意する必要はないということです。
それどころか神への捧げ物として善い行いをする人、善い人であろうとする人はすべて、「神との取り引きを試みる商人」なのだとエックハルトは述べています。
神は、私たちに、商人のような取り引きを一切求めてはおられない、ということなのです。
神が一人ひとりの魂における出会いにおいて求めておられるのは、誇りうる行為や金で手に入れた捧げ物などではなく、ありのままの謙虚な砕かれた心で愛を受け取ることだというのです。
イエスの行為と言葉は、「商人のような取り引きはやめなさい。雑物を手放し、無私無心になって、信頼をもってあなたの魂を神を迎える家にしなさい。私はそこに住みたい」という愛のメッセージとして心に響きます。
「あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」という神の愛は無条件の愛であり、私たちが何かを行ったり、行わなかったりすることによって左右されるものではないということです。
自分を誇ることなく魂の器を空にして、すべてをお任せして神の前に出る時に、神はそこに溢れるほどの愛を注いでくださるというのです。
この無条件の神の愛への信頼。
ここに私たちの大きな希望があります。この希望をもってこの1年を歩みたいと思います。
そしてこの豊かな愛を受け、その愛を持って私たちも周囲に愛を伝え、わずかでもこの世界に希望を生み出す一人とさせていただきたいと願います。
笠間市日動美術館所蔵 小磯良平 聖書の挿絵より/宮清め
高橋和也Facebook 2024年1月2日