自由学園北京生活学校は、戦時下に羽仁もと子・吉一により北京郊外で開校され、中国の15歳から18歳の少女を募集して始められた学校で、1938年に開校し終戦を迎えた1945年まで続けられました。
日中両国民の相互の理解と親愛が深まることを願い始められた北京生活学校では、主に自由学園女子部の若い卒業生が指導者となって起居を共にし、少女たちは羽仁先生の思想の下で「生活即教育」の学びを実践しました。生活技術を始め、日本語や、美術工芸などを学び、多くの美術工芸品も制作されました。羽仁両先生も数度にわたって北京を訪れ、また学園の教師たちも折に触れて派遣されて少女たちの教育に当たっています。卒業後中国から自由学園に留学した人もいました。
少女たちにとっては、北京生活学校での生活や学びは、それまで経験したことのないことばかりで驚きの連続であったそうです。そこで学んだことが、その後人生を歩む上での大事な指針となったという方も多く、卒業生と自由学園の交流は今も続いています。
開校式は1938年5月15日(火)。今年80周年を迎えた記念日に、自由学園に北京生活学校3回生の劉鳳祥(リュウ・フォン・シャン)さんをお迎えすることができました。今年93歳です。
この日はちょうど全国友の会大会の第1日目が自由学園で開催された日で、大会の中で、高橋学園長が北京生活学校について紹介し、劉さんのお話を伺うことができました。
劉さんは当時学んだ日本語を見事に用いてお話をされました。
「愛に基づく学校は永遠だ。山室光子先生を始め、若い先生が人生をささげて身をもって教えてくれた。それが人生の土台となった。その姿勢から多くを学んだ。」ということ、また羽仁先生が国が違っても「太陽はひとつ、世界中にひとつ」であること、その太陽を作ってくださった方はただ一人、「私たちはみな兄弟姉妹」と教えていただいたことを話されました。
羽仁もと子著作集『教育三十年』の『太陽は一つ』に書かれていることについて、実際にその時に学んだ方から伺うことができて、友の会の方々も感銘を受けていらっしゃいました。
翌日の朝には、男子部・女子部(中等科・高等科)、最高学部(大学部)の生徒学生が集まる合同礼拝の折にも、劉さんにいらしていただきました。自由学園には「JIYU北京生活学校80」「JIYU100 福」と刺繍してある手作りの額を頂戴しました。
その後、羽仁両先生がかつて住まわれた羽仁両先生記念館をご覧になり、また後日、自由学園明日館にもいらっしゃいました。