5月10日(土)雨で肌寒い中、午前9時半より、ひと月に一度リビングアカデミー(以下LA)生全員が顔を合わせる「みんなの日」が、緑ヶ丘跡地の校舎2階ホールで行われ、109名(zoom参加なし)が集まった。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌122番「みどりもふかき」を歌った。
<「忘れられない人々」6期生・佐藤 富子さん>
「みんなの日」には、毎回最初にLA生のお一人から「忘れられない人々」をテーマにお話を伺っている。今回は6期生の佐藤富子さんが介護のお仕事の中で出会った方々についてお話しをされた。
私は、40歳の時に2人の子どもを抱えて生きていかなければならなくなった。介護福祉士の資格を取るべく通った飯田橋キャリアカレッジの先生が「まず、あなた自身が幸せになって下さい。そうして初めて介護する利用者さんを幸せにしてあげられます」と声をかけてくださった。
リュウマチで寝たきりの苦しい日々を過ごしておられた80代の女性を訪問した時、「あなたは大丈夫。必ず幸せになれるわよ」と私の方が元気づけられた。戦時中は南方の島で苦しい生活を経験し、今は肺気腫で歩くのも辛くなった92歳の男性は「この先、親が年とってどんな風に変わってしまっても、今までしてきてくれたことを感謝して忘れてはいけない」と諭して下さった。癌で腎臓の片方を失い、うつ病の中でも前向きに美しい油絵を描かれる88歳の女性は、「今やりたいことを後悔しないように、出来ることはしていきなさい」といつも励まして下さった。生死に関わる大病をし辛い治療を乗り越えて自宅で暮らす友人は「やりたいと思ったことは叶えたり、目の前の置かれた困難は乗り越えたりが人生だわ」と励ましてくれる。
辛い、寂しい思いをされておられる人こそ、人に優しく温かいのだ。私を励ましてくれた人たちが「私の忘れられない人々」です。

<教養講座「映画『サステナ・フォレスト~森の国の守り人たち』から 川上敬二郎氏
>(映画内容要約)
今年度第1回の教養講座は川上敬二郎氏(TBSテレビ報道局社会部 文部科学省担当記者)
制作の映画『サステナ・フォレスト~森の国の守り人たちから』を見て、川上氏が質疑応答に応えてくださった。
日本国土の7割を森林が占める森の国ニッポン。この森をいつまで保てるのだろうか。森は今警告している。今、森はどうなっているのか、どのような付き合い方をすればよいのか。そのような思いから持続可能な森を探る取材を始めた。
1. 悲鳴をあげる森~ナラ枯れ~
全国各地の主にナラなどの広葉樹林でナラ枯れによる倒木、落枝による事故が起き、死亡事故も発生している。
2. 森をどうデザインする
国内の森林の約4割を人工林が占めている。それらの人工林の多くは、戦争で荒れた山に戦後間もなく植林されたものである。だが多くは放置されている。獣害や土砂崩れにも関連がある。それらをどうするのかが今、問われている。
3. 森の挑戦者たち
岩手、福岡、徳島などでの林業関係業者を取材している。少しずつ若い人の中に環境保全や地域の活性化のために「自伐型林業」にチャレンジする人もいる。国土を守る仕事でもある林業従事者たちが尊敬される社会をつくっていきたい。
最後に、川上氏とLA学生とで、木にまつわる歌を一緒に歌いました。
「この道」
童謡百曲集 第3巻
詩: 北原白秋 (Kitahara Hakusyuu,1885-1942) 日本
曲: 山田耕筰 (Yamada Kousaku,1886-1965) 日本
この道はいつか来た道、
ああ、さうだよ、
★あかしやの花が咲いてる。
あの丘はいつか見た丘、
ああ、さうだよ、
ほら、白い時計台だよ。
この道はいつか来た道、
ああ、さうだよ、
お母さまと馬車で行つたよ。
あの雲もいつか見た雲、
ああ、さうだよ、
★山査子の枝も垂れてる。

教養講座終了後、LA賛歌を皆で歌った。
<諸報告>
① 創立100周年募金・塙健司委員長より募金に対するお礼。
② 自由学園協力会・森礼子会長から協力会へのご協力のお願い。
③ 今年度の「みんなの日」の6月、9月、12月の午後の集いの予定について。
その後、体操クラスの指導者の渡辺恭子先生の指導で生活体操を行った。
<昼食・自己紹介>
初等部食堂で家族ごとにテーブルを囲んで手作りの昼食をいただく。メニューは、筍ごはん、鮭の塩焼き、小松菜もやししめじのお浸し、金時豆の甘煮で、筍は学校で採れた筍を使用する。
昼食をいただきながら、自主活動のお誘いの報告があった。

<午後の集い:家族ごとのミーティング>
午後は13時30分ごろより14時まで、10期生自己紹介の1回目で12名の方が自己紹介をした。
その後14時より15時半までは、先月に引き続いて、11の家族に分かれてミーティングの時間をとった。家族の目的の「交わりを深める」ためにできることなどをそれぞれ考え、具体的な計画を立てられた家族もあった。
