9月6日(土)は、9月の「みんなの日」が行われた。午前中の教養講座は記念講堂、午後の家族ごとの集まりは緑が丘校舎で行われ、LA生116名(うちZoom参加3名)が参加した。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌285番「主よ、み手もて ひかせたまえ」を賛美した。
<「忘れられない人々」6期生・脇田照美さん>
「みんなの日」恒例の「忘れられない人々」は、6期生の脇田照美さんがお母様と、お母様の介護に関連してお世話になっている方についてお話しされた。
私は、父を亡くして母の介護のために、それまでしていた仕事を辞めて、それを機にLAに入ることにした。LAでは、介護の仕事をしてこられたベテランの方や、月2回母と私と3人でヨガやランチをしながらおしゃべりをして下さる方に出会い、助けられてきた。今年は戦後80年を迎えてTVでも関連の番組が流れている中で、母は88歳を迎えた母は、「戦争は二度とやっちゃダメ」と。そして戦中戦後の日々を振り返って、当時のことを少しずつ話してくれる。母は富山の農家に生まれたが、祖母は工場で働いて実家に仕送りをしていたため、梅干し一つの入ったおにぎりを持たされて託児所に預けられた。学校の隣の神社を皇軍の兵隊が通った。長い髭をはやしたエライ人は馬に乗ってふんぞり返っていた。下っぱの兵隊は銃を担いで歩き粗末な食事を食べていたがエライ人は何を食べていたのだろうか。終戦の少し前に、富山市で大空襲があって、市内が全部燃えた。小学3年で終戦を迎えた。実家に戻り貧しい中での10人暮らし。厳しい祖父母のもとに、馬と鶏の世話や、風呂わかし、食づくりまで手伝った。つぎを当てたボロを身にまとってみじめな日々を過ごした。まわりのみんなもボロをまとっていた。「戦争は二度とやっちゃダメ」。私も心からそう思います。
戦中戦後を生き抜いた母の言葉をずっと忘れないでいようと思う。

<教養講座『関東大震災と羽仁もと子』森まゆみ氏>要約
今年度4回目の教養講座は、森まゆみ氏(作家・編集者)に『関東大震災と羽仁もと子』と題して、お話を伺った。森まゆみ氏の著書の中には『じょっぱりの人-羽仁もと子とその時代』(2024年4月・婦人之友社)があります。
生い立ちから新聞記者へ
羽仁もと子(1873–1957)は明治6年、青森県八戸の士族の家に生まれた。上京後、府立高等女学校(現・白鷗高校)や明治女学校で学び、キリスト教的教育を受ける。若い頃から自立心に富み、行動力と準備力を兼ね備えていた。明治時代に女性が社会的に活躍する道は限られていたが、もと子は自らの力を示し、入社した新聞社で当初は校正係として入社したが、その後取材記者として活躍、女性としては日本で草創期の新聞記者となった。同僚で年下の羽仁吉一と結婚したことを機に夫婦ともに社を辞め、自らの媒体を持つ決意をする。1903年に雑誌「家庭之友」を創刊し、のちに「婦人之友」として発展。家庭生活の合理化、主婦の日記、家計簿の普及など、生活文化を刷新する提案を数多く行った。
自由学園の創立と教育理念
羽仁夫妻は1921年、東京・目白に自由学園を創立する。フランク・ロイド・ライト設計の校舎「明日館」は近代建築として名高い。のちに校舎が手狭となり、郊外の東久留米・南沢に広大な土地を取得し「学園町」を開発。学園関係者や支援者が集住する独自の学園都市を形成した。この先見的な試みは、緑豊かな郊外住宅地として今日でも評価されている。自由学園の根本理念は「生活即教育」であり、学問だけでなく日常の営みを通じて人格を育てることを重視した。この教育姿勢は後に関東大震災時の対応においても大きな力を発揮する。
関東大震災と羽仁もと子の実践
1923年9月1日の関東大震災は10万5千人以上の犠牲者を出し、東京の下町は壊滅した。目白の自由学園は幸い無事で、もと子は「東京という偉大な友が痛手を負った」と表現。被災地を人格を持つ存在としてとらえ、支援に尽力した。もと子は震災を教育の契機ととらえた。他校が休校や外出制限を選んだのに対し、自由学園は生徒を積極的に救援活動へ参加させ、現実の生活を学びと結びつけた。これは「生活即教育」の理念の実践そのものであった。
①目白の学園の2000坪の校庭を罹災者に開放し、使っていない着物や布団を持ち寄り、綿の打ち直しや洗い張りをして再利用して安価で販売した。施しではなく対価を伴う「対等な関係」を重視した点が特徴的である。
②婦人団体と協力してミルク配給を行い、自由学園の生徒たちも延べ300人が活動に参加。本郷区で700世帯に練乳を届け、乳児や母親を救った。羽仁は「持てる者は余分を分かち合うべき」と説きつつも、あくまで対等な取引を通じて罹災者の尊厳を守る姿勢を貫いた。
③本所区太平小学校で給食活動を開始し、100日間にわたり生徒たちが食事をつくり提供した。歴史学者チャールズ・ビアード夫妻などから食材や寄付が集まった。この時にも「私たちは、太平小学校の教員と児童を、手伝いに行く立場」と謙虚だった。
社会活動その後の発展
関東大震災での経験を基にして、もと子はさらに社会活動を発展させていった。
①1930年に友の会を設立。1935年には東北の飢饉に対応し、現地調査を行って最も支援が必要な地域にセトルメントを設置。自由学園の生徒を指導者として派遣、字を教え、縫い物を教え、給食を出し、手間賃を払い、女性の暮らしの近代化と仕事の能力向上を目指した。
②日中戦争が始まり、中国との民間交流が全く断ち切られそうになっていた1939年に、北京生活学校という貧しい少女たちのための学校を創立。生活に結び付いた教育に加えて、欧州に留学して工芸について学んだ卒業生などが指導に当たった。
③敗戦後、旧満州や朝鮮半島からの引揚者約600万人が困難な旅をして帰還した。もと子は佐世保や福岡の友の会の協力を得て、性暴力被害女性や戦災孤児の支援活動を展開。性病や妊娠の有無を行政にかわって寄り添いながら調査した。福岡では寺を借りて孤児のための寮をつくる活動も行った。佐賀でもそうした女性の自立のための訓練所を開いた。
羽仁もと子と戦争協力
もと子も戦時中に戦争協力をしなかったとまでは言えない。戦時中の日本では物資が不足していたため、もと子の「足ることを知る」というつつましい思想が社会的に活用された。出征兵士の家族の支援、また政府や自治体から依頼され節約生活の実践を行った。しかし巻頭言などでは、ひとたび自国の政府が戦争を選んだならば、それに協力せざるを得ない、といったことも書いている。ぜったい平和主義であったもと子のこの変化、そしてキリスト教の神と、日本の天皇や神派どういう関係になって居たのか、もうすこし検証が必要だろう。
関東大震災に伴って起こった事件
関東大震災時、朝鮮人や中国人に対する流言飛語が広まり、自警団が形成され、武器を持って町を守る行動が過激化し、誤って殺害された日本人58人、中国人約800人、朝鮮人の犠牲者数は不明(震災公園には6000人と記載されている)。竹下夢二の絵『自警団ごっこ』には、子どもたちが自警団の真似をして遊んでいる様子が描かれている。そのほか、社会主義者も殺された。
関東大震災が与えた社会的影響
関東大震災は、社会現象や後の戦争につながるきっかけとなった。
①関東大震災の際、火災が広範囲に拡大する中で、神田佐久間町とその周辺地域が住民の必死の防火活動により奇跡的に延焼を免れたことが称賛されて、それが戦時国防、自分の町は、自分で守りましょうという考えに繋がっていった。
②震災を契機とした社会主義者・アナキスト・反権力者の弾圧、朝鮮人虐殺、亀戸事件など多くの事件が発生した。9月16日にアナキスト大杉栄、内妻伊藤野枝、甥の橘宗一が甘粕正彦大尉らに憲兵隊に連れて行かれ扼殺された「甘粕事件」が起きた。
もと子は『婦人之友』11月号で大胆にも「甘粕事件に関する感想」を著名な文化人48人から集めて掲載した。「日本の教育が非常に時代遅れで、封建時代の私闘の観念が存在している」「法律によらない刑の執行が帝都の真ん中で行われたことだけで戦慄すべき暴挙だ」「国家擁護の美名に隠るる私刑にほかならず」との感想がある一方で、「甘粕大尉の無私をあくまで信じます」「帝室の保護を持って職責とする軍人がこれを憎悪するのはもっともの次第である」という感想もあった。以上を踏まえてもと子は「愛か暴力か」と題して「暴力の中には普通の人の目には美しく見えたり、頼もしく見えたりする種類のものがたくさんあります。人は知らず知らず、暴力を持って身を守り、家を守り、国を守るようになると思います。……あらゆる考えの違いとか事件は、やはり愛と、そして法によって鑑みるものであって、暴力をつかってはならない」と書いている。
排外主義・流言飛語への警戒
関東大震災や戦争の時代を通じて、排外主義や流言飛語が社会を混乱させた。現代でも日本人ファーストや外国人排斥の勢力が大きくなっている。歴史的事件から学び、排外主義や流言飛語に踊らされない冷静な生活態度を持ち続けたい。そのためにも歴史的事件の記録や記念碑を大切にし、過去の教訓を現代に生かすことが求められている。

教養講座終了後、LA賛歌を皆で歌った。
<諸報告>
- 家族の集いで学外に出る計画は13:15以降のスタートを原則にする
- 新しいLAはたらき隊「あむあむLA」の立ち上げについて
- 体操会について予定(次年度は10周年なので参加することを考えたい)
- LA祭は会場は初等部体育館、11月22日(金)前日準備への協力のお願い
午前の部終了後、体操クラスの渡邉恭子先生のご指導で中心に生活体操をした。
<昼食・自己紹介>
昼食は、最高学部の食堂でお皿に各テーブルで盛り付けをしていただく。メニューは、
ハヤシライス、キャベツ・水菜・じゃこのサラダ、ベイクドかぼちゃ、オレンジ。
LAの畑で収穫したつるむらさき・みょうがはサラダに入りました。

<午後の集い:家族ミーティング>
午後1時30分から、場所を緑が丘校舎に移して、家族ごとに分かれての活動を行った。学外に出かけての活動を行った家族も多くあった。その活動先は、明日館、ちひろ美術館、牧野富太郎記念庭園、多摩六都科学館、「帰還者たちの記憶」ミュージアムなど。