5月7日(土) 「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 一貫教育の【自由学園】/ 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上

5月7日(土) 「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】

「みんなの日」の様子

5月7日(土) 「みんなの日」

2022年5月21日

5月7日(土)前夜からの雨も上がり美しい新緑の中、午前9時半より、ひと月に一度リビングアカデミー(以下LA)生全員が顔を合わせる「みんなの日」が行われ、125名が記念講堂に集まった。コロナ感染が続く中、万全の感染対策での開催となった。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌122番「みどりもふかき」(合唱付)の録音を聞きながら、各自声を出さずに心の中で歌った。
<「忘れられない人々」2期生・青木通子さん>
「みんなの日」には、毎回最初にLA生のお一人から「忘れられない人々」をテーマにお話を伺っている。今回は2期生の青木通子さんが「安曇野の美術館で偶然出会った横山拓衛さんとその後」についてお話された。
横山さんとの出会いは今から50年程前の21歳の頃、美術館巡りが好きで、安曇野の穂高にある碌山美術館を訪ねた時のこと。開館よりかなり早く美術館に着いた私を見つけた横山さんが、敷地端にある小屋にお茶に誘ってくださった。記念にと木の枝を削って小さな笛を作ってくれた。そして友人にワサビ漬けを贈るために部厚い木の塊をノミでくり抜いて箱を作っている様子がうれしそうに見えた。
LAに入り、木工カトラリークラスの山下先生を通して、彫刻家の井崎正治さんとお話しする機会があり、井崎さんも今から50年ほど前に碌山美術館で横山さんと話したことがあることがわかり、50年も前のことで話に花が咲いた。一つの出会いから50年以上たって、また別の出会いにつながる偶然が不思議で面白く思っている。

<教養講座「半導体メモリ開発最前線を駆け抜けて」伊藤清男氏>
今年度第1回の教養講座は伊藤清男氏(日立製作所名誉フェロー)から「半導体メモリ開発最前線を駆け抜けて」と題して講演をしていただいた。

1.半導体LSIとは?
半導体LSIとは、1000個以上の素子を集積した大規模集積回路で、シリコンなどの半導体で構成される。計算機、携帯電話、家電などデジタル社会の中核部品である。LSIにはメモリLSIと論理LSIがある。メモリLSIには、情報“1”と“0”を記憶する最小単位であるメモリセルが多数集積されているが、電源を切っても情報が消えないフラッシュメモリのような不揮発メモリと、電源を切ると情報が消えるSRAM/DRAMのような揮発メモリがある。DRAMメモリセルは、トランジスタとキャパシタから構成され、キャパシタに電荷が有るか無いかを記憶情報“1”と“0”に対応させて記憶する。しかし放置しておくとキャパシタのリーク電流で電荷がなくなってしまうので、なくなる前に周期的に同じ内容を書き直す必要がある。現在では8-16ギガビットのDRAMが製品化されている。
2.私のDRAM研究開発
私は1963年日立中央研究所に入社後55年間、一貫してハイテク研究に携わった。私が当初の大型計算機用磁性体メモリの研究からDRAMの研究に転身したのは、IBM&インテルのメモリLSIの製品発表(1970年)に因る 。この発表は、メモリ技術が磁性体から半導体に置き換わる歴史的転換点となった。社内での紆余曲折の結果、結局、私は不本意ながらDRAMの研究に転進させられ、その後は国際競争の真っ只中で失敗・挫折を4度繰り返すことになる。技術とマーケッティングが未熟だったためである。でも「艱難汝を玉にす」、私はより逞しくなり、彼我の差を徐々につめていき、以下のように、ついに64キロビットで世界一に躍り出た。関係者の不退転の決意と「後発者の先行着眼」に因る。後追いでも着眼(特許や考え方)が先行していれば逆転できるのである。
1978年、64キロビットメモリLSIの世界一への挑戦、失敗続きの私にとって辞表覚悟の最後の挑戦が始まった。課題の一つは、安定動作を妨げる雑音問題であった。メモリセルの2者択一の選択、すなわち使用実績がなくても原理上雑音の小さい自らが発明した折り返しデータ線配置「2交点セル」か、使用実績が十分な開放データ線配置「1交点セル」か、それは苦渋の選択であった。工場側との激論の末、結局、私は、チーフデザイナとして、工場側の反対を押し切って、「2交点セル」の採用を決断した。この決断には、磁性体メモリで雑音にさんざん悩まされた経験が生かされた。1交点セルでは、64キロビットともなると雑音が大きく問題になる、とわずかな実験データから予想されたのである。1980年1月、量産スタート、1980年2月、国際学会で発表すると大きな反響を呼び起こすこととなり、1981年には64キロビットメモリLSIの世界シェアの40%を日立が、69.5%を日本メーカー全体が占めることとなった。この結果、半導体の日米逆転が起こり、その後は日米半導体摩擦が深刻化していった。失敗と挫折を繰り返していた私にとって、40歳ごろにたどり着いたこの成功は、研究人生の転換点となった。それ以降、この成功を機に高い独自の目標を掲げ、DRAMの多数の技術開発と特許で世界を先導したと自負している。
これらの長年の実績が評価され、カリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学などに客員教授として招聘され、さらには論文・特許・専門書の執筆、招待講演や表彰は多数にのぼる。また初代日立フェローへ就任、2000年に紫綬褒章、2017年に旭日小綬章を受けた。
(以上が前半の講演で、休憩後には世界旅行84カ国の中から写真を用いた秘境ベスト10の紹介があり、その後後半の講演に入った)
3.これからの世界の中の日本
1990年代以降、日本半導体は低迷を続け、シェアも10%以下まで落ち込んでいる。その原因として(1)大胆な成長戦略の欠如、(2)技術流出と韓国・台湾・中国の台頭などが挙げられる。今こそ、過去と現実を直視した改革が求められる。短期的には、熊本に新設されるTSMC(台湾)の先端製造ラインを完遂する。長期的には、私見であるが、半導体の成長分野を見極め、日本独自の戦略を立案・推進する国家プロジェクトが必要となろう。この実現のためには①強いリーダーシップ・スピード経営・国際感覚に富む経営者の発掘・育成、②70―80年代の挑戦溢れる社会を取り戻す、③今度こそ知的財産を守り活用する政策、④創造力に敬意を払う半導体にふさわしい意識改革などが必要となる。
(講演を伺った学生からは積極的な質問が寄せられた。「開発と生産現場の意見の相違をどのように乗り越えたか」「今後の半導体の展望は」「半導体不足は日本で賄われるか」「日本の半導体はかつての輝きを取り戻せるか」「ウクライナ侵攻で生じる希少金属不足による半導体への影響は」などの質問に対し、一つ一つ丁寧に答えてくださった。)

<昼食・自己紹介>
教養講座終了後、LA賛歌を録音に合わせて、出席者は心の中で歌って午前の部終了。その後、渡邉恭子先生(選択クラス体操講師)のご指導で、その場で出来る生活体操で体をほぐした。

昼食は、記念講堂で間隔をとって手作りのお弁当を黙食。メニューは、キャンパス内で獲れた筍を使った筍ご飯、かじきの七味焼き、野菜とわかめの甘酢和え、金時豆の甘煮。食糧部スタッフから食事作りの報告があった。
昼食をいただきながら、4月に入学した7期生7名の方の自己紹介(第1回)を伺う。また、自由活動のグループからの報告があり、アート&クラフトのグループからは、ポーランド・ポメラニアン大学のウクライナ留学生の支援募金のために製作したひまわりをあしらった素敵なカードの紹介があった。


  • 7 期生の自己紹介

  • 「ひまわりカード」

<午後の集い:家族ごとのミーティング>
午後は13時半より先月に引き続いて11の家族に分かれてミーティングの時間をとった。家族の目的の「交わりを深める」ためにできることなどをそれぞれ考え、具体的な計画を立てられた家族もあった。15時半までに散会した。

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