10月21日(金)は10月の「みんなの日」を記念講堂で行った。今回は平日だったこともあって、欠席者が比較的多くなりLA生105名が出席、4名がオンラインで自宅から参加した。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌312番「いつくしみ深き 友なるイエスは」をコロナ感染を考慮して小声で賛美した。
<「忘れられない人々」2期生・田中美和子さん>
「忘れられない人々」は、2期生の田中美和子さんが、若い時に職場で出会ったTさんについてお話しされた。
Tさんは私より数年年上で、会社で知り合い、いつも明るく笑顔の人でした。ところがある日、休憩室でのこと、Tさんは「私は中学卒業のころに母が病気で亡くなり、それからは何をしても心から楽しいと思って過ごしたことがないの」と言って涙を流したので、私はビックリしてしまいました。そのとき思ったことは「とてもよいお母さんだったのだろう」「親とは子供に何と大きな影響を与えるものなのだろう」ということでした。
その後私は、Tさんの一言が心に残り、2人の親になってからは「私はこの子が大人になるまでは生きていなくてはならない」と思って体に気をつけるようになりました。
Tさんは、その後郷里の四国で結婚したと聞き、「これからは、きっと心から楽しいと思う日を過ごせるにちがいない」と思いました。そしてその後も折り折りに「心から楽しいと思う日を過ごせているのかしら?」とTさんを思い出します。
<教養講座『浮世絵と和食の四天王』谷岡 清氏>要約
今年度第5回の教養講座は、谷岡清氏(美術評論家・NPO美術教育支援協会理事長)に『浮世絵と和食の四天王』と題してお話をしていただいた。
1)日本人の食生活
日本人の過去の食生活を知る手掛かりになるのが、遺跡や文献である。最近は発掘された人骨の歯についた「歯石」の研究が進んでいる。各時代の食事を見ると山海に恵まれ、豊かな食材が揃っていたことがわかるが、いつの時代でも貧富の差は激しく、飽食の食膳もあれば貧しい「一汁一菜」の食事も見られる。
1582年、織田信長が徳川家康を安土城でもてなすに当たって、明智光秀に命じて料理を用意させた記録が残っている。3日にわたり計4回140品もの豪華な料理が並んだ。その内容は、目下の人が目上の人をもてなす内容になっていたため、信長が激怒、光秀を叱責したことが、その後の光秀の謀反につながったとも見られている。
2)江戸の食文化概観
屏風絵や歌川国安、歌川広重らが庶民の暮らしを描いた浮世絵などから江戸の食文化の様子がわかる。平和が長く続いたので、元禄の頃から一日二食が三食になり、飲食店・料理屋など外食文化が発展し、料理本も刊行されて食への関心が深まった。関西では淡口醤油・昆布出汁・薄めのタレを使っていたのに対して、関東では独自に濃口醤油・鰹出汁・濃いめのタレを使うなどの相違があったが、長い歴史をもつ上方文化と料理に対して江戸の食事は低く見られることが多く、そこにも西高東低が表れていた。上方から樽廻船で運ばれた“くだり”酒は「ダリ」と呼ばれ上等酒であったのに対して、関東で造った酒は“くだらない”酒と言われた。日本橋には魚市場があり江戸の物流の中心地として賑わっていた。
3)和食の四天王
単身赴任や男の職人が多かったため、外食文化が発達した江戸で好んで食べられたのが、すし・てんぷら・そば・うなぎの4つである。
①すし:奈良時代から始まった飯の醗酵を利用した魚の保存食が飯の上にのせて食べる寿司しへとなった。江戸時代になると、ご飯に酢を混ぜた「早寿司」が生まれ、箱にこれを詰めて魚を上にのせた「箱寿司」からにぎり寿司へと発展した。江戸のにぎりは今よりも飯が大きかったので、女客のため二つに切って出したのが一皿二貫盛りの始まりとの説も。すしだけでなく刺身も食べていた。切るとか刺すという言葉を嫌って、古くは「指身」「指味」「差味」などを用いた。
②てんぷら:野菜・魚貝を小麦粉で包んで揚げる。ポルトガル語「Tempero」(料理)からついたともいわれる。ポルトガルの宣教師が伝えた衣の厚い「長崎てんぷら」が始まりで、やがてゴマ油が広まって江戸で爆発的人気になった。
③そば:奈良時代から食べられていたそば掻きが江戸時代になって麺になり、勢いよく吸い込むのが受けて大繁盛した。「二八」蕎麦はそば粉が8割、つなぎの小麦が2割のそばで、そばの値段が16文だったので2×8=16との説もある。生蕎麦はすべてそば粉でつくる。二八の方が細く切りやすく、喉ごしも滑らかなために主流になった。
④うなぎ:関西では鰻を割かずぶつ切りのまま串を刺して焼いたので、蒲に似ていたので“蒲焼”となった。その後、江戸では背を割り、上方では腹を裂いてタレをつけて焼いて食べるようになった。武士の多い江戸では「腹を切る(割く)」は好まれず、背を割って開く。
⑤そのほか:団子・饅頭・羊羹などの様々なスイーツやスイカなどの水菓子も好んで食べられていた。
江戸庶民の日常を活写した浮世絵を見ると、現代の和食の原形は、ほとんど江戸時代に完成していたことがわかる。
教養講座終了後、LA賛歌をピアノ伴奏に合わせて小声で歌った。
<諸報告>
①11月23日の「LA祭」と「JIYU1123」について
②11月12日の「みんなの日」はLA祭の準備を行う(昼食は有料申し込み制)
③9月2日「みんなの日」後の家族長会議報告
④9月16日「栗拾い」の報告
⑤ポメラニアン大学学長から9月支援金に対するお礼のメールについて
午前の部終了後、体操クラス学生の号令で座った姿勢で生活体操を行う。
<昼食・自己紹介>
昼食のメニューは、ごはん、筑前煮、紫花豆の甘煮、大根・胡瓜・小松菜の甘酢漬け。 ごはんは那須農場で収穫されたもの、紫花豆は佐久友の会のもの、小松菜はLAの畑で獲れたものを使ったと、食糧部スタッフから報告があった。
昼食を食べながら、4月に入学した7期生5名の方の自己紹介(第5回)を伺った。
また、LA祭の準備委員からLA祭についての説明があった。
<午後の集い:災害時の注意『大雨の時にどう逃げる』松野裕耶氏
この夏にも、豪雨災害の被害が報道される中で、大雨の際にどう対応したらよいかを学ぶために、松野裕耶氏(気象庁東京管区気象台防災調査課)から「災害時の注意『大雨の時にどう逃げる』」と題してお話をしていただいた。
前半は、気象庁のeラーニング教材の『大雨の時にどう逃げる』の紹介動画を視聴。
後半は、各自が用意した自宅周辺のハザードマップを見ながら、災害リスク・避難先・避難行動・いつ非難するかを記入するワークシートへ各自で書き込み、大雨の時の避難について考える時間を持った。