7月22日(土)「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 一貫教育の【自由学園】/ 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上

7月22日(土)「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】

「みんなの日」の様子

7月22日(土)「みんなの日」

2023年8月18日

7月22日(土)は、緑ヶ丘跡地の校舎2階ホールで7月の「みんなの日」が行われ、LA生128名(うちZoom参加5名)が参加した。

はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌276番「神はわがやぐら」を賛美した。  

<「忘れられない人々」3期生・布施雅弘さん>

「みんなの日」恒例の「忘れられない人々」は、3期生の布施雅弘さんが高校時代にお世話になったK先生についてお話された。

私は北海道のカトリック系の寮のある高校に進学した。家が地元にあったため寮には入らなかった。そこで、出会ったのが、宗教の時間を担当してくださった神父でもあるK先生。身近な生活の中でのキリスト教の考え方を教えて下さった。先生の教会にも通い、相談に乗って下さったり、悩みを聞いて下さったり、親しく交わる機会をいただいた。数年前に同窓会を開いた折には、アメリカで布教活動をしておられるK先生からメッセージが届き、私たちのことをよく覚えておられることがわかった。また同級生の多くが自分の結婚式の司祭をK先生にしていただいていたことも、その時に知った。その後K先生がアメリカで亡くなったとの報を受けた。高校時代に出会ったK先生が、私にとって忘れられない人である。

<教養講座『東大教授、アルツハイマーになる』若井克子さん>要約

今年度3回目の教養講座は、若井克子さんに『東大教授、アルツハイマーになる』と題して、スタッフの鈴木が聞き手をして、お話を伺った。

若井克子さんの略歴

1946年生まれ。日本女子大学在学中にキリスト教に入信、卒業後は三重県の愛農学園農業高校などで家庭科の教諭を務め、1974年脳外科医だった若井晋(すすむ)さんと結婚。2005年ごろから、当時東京大学大学院の教授だった夫・晋さんが認知症の症状を示すようになり、大学を早期退職。夫と共に自然に恵まれた沖縄に移住するなどして病と闘う日々を過ごした。2年前の2021年の晋さん永眠後には共に過ごした日々を記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社)を刊行した。

1)キリスト教との出会い

四国の香川で生まれ育った私は、地元の有名高校・高松高校に入学したものの、授業についていかれず劣等感を感じるようになっていた。行きたかった東京の大学に入学できたものの、大学の勉強が面白くなくて、外に目が向くようになって社会問題に関心を持つようになっていた。そのような時に、友達から学内で行われる高橋三郎先生(内村鑑三の始めた無教会の集会を主宰していた)の講演会に誘われて、その講演会に参加した。高橋先生は「真理の勉強をしなければならない、自分で求めないと真理は得られない」と、絵画の話と合わせてヨハネの黙示録「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(3章20節)を引いて話された。(話の中に出てきた絵画とは、ウィリアム・ホルマン・ハント作の『世の光』と題した絵で、長い間開かれることなく、つたが絡まった扉をたたこうとしているキリストの姿が描かれていて、作品中の扉には取っ手がなく、中からしか開けられないことが表されている) 高橋先生の言葉はすっと私の中に入ってきて、それから高橋三郎先生のされている日曜日の礼拝に出席するようになった。結婚することになる晋さんとも、高橋先生の集会で出会うことになる。

2)就職から結婚へ

大学卒業後徳島県の高校で家庭科の教師になった。3年を終えたころに高橋先生から「男子校であった愛農学園高校が女子を募集するので、女子寮の寮監と家庭科の教師になってくれないか」と手紙が届いた。せっかく近くの学校に勤めていた私が遠い学校に行かなければならないということで、母親は高橋先生に苦情の手紙を出した。高橋先生からは「克子さんのお相手は私が必ず探します」との返事が届き、その後何人も紹介してくれたが、知らない人だったので気が進まない。そこで、正直に「若井さんとなら結婚したい」と先生に伝えた。晋さんに愛農学園で開催される「新春の聖書講習会に来ませんか」と手紙を出して、晋さんは講習会に参加。講習会最終日に、高橋先生は「結婚について」お話をされた。そのお話しに対して晋さんは講習会の感想文の中に「神よ、わたしの心は定まりました。 わたしの心は定まりました。 わたしは歌い、かつほめたたえます。」(詩篇57編8節)の言葉を残して帰って行った。その後婚約、お互いに励ましあって、私はその後も3年間愛農高校で働き、晋さんも医学の勉強をして、1974年に既に医者となっていた晋さんと結婚した。

3)医療者として多忙な日々を過ごす

当時は今に比べてまだ人数も施設も少なかった脳神経外科医としての仕事は激務で、忙しい日々が続いていた。そのような中で、1981年に脳神経外科医が足りていない台湾彰化基督教病院に赴任し脳神経外科医長を務めた。気候も食事も違う中で苦労しながら1年勤務して帰国。ちょうど脳外科医のポストが空いていた独協医科大学に勤めることになった。しかしそこでも多忙な日々が続いて、少し休みたいということもあって、独協医科大学を休職して、1983年にアメリカに渡り、アメリカ国立衛生研究所研究員として過ごす日々を送った。その後帰国して独協医科大学に戻ったが、休職中に他の医師がポストについていたため、大学を退職して1991年から日本キリスト教海外医療協力会JOCSの総主事を務めた。脳神経外科から国際地域保健学の分野に転進することになり、1999年には、東京大学大学院医学系研究科国際地域保健学教授となった。日本では当たり前に手に入れることのできるきれいな水もなかなか手に入らないような地域へ派遣されているJOCSワーカーを訪ねて、2000年から2004年にかけては計32回海外に主張した。しかし、そのような中で、2002年ごろからは昔なじみのところにたどりつけない、2004年ごろにはATMでお金をおろせないことなどが始まっていた。アルツハイマー病であることが判明し、2006年3月定年より1年早く59歳で東京大学を退官した。

4)若年性アルツハイマー病を発症して

医師は自分の専門領域の病気になる事を極度に恐れる。脳の専門家で脳の病気を一番恐れていた彼がアルツハイマー病を発症した。沖縄に移り住み、上田裕一医師など様々な人と出会い過ごしたが、長い間才能を発揮して生きてきた彼が病気を受け入れることはなかなか出来ることではなかった。そんな彼に思いがけずに転機が訪れた。次男の結婚式のために札幌に行くことになった。次男の結婚式を終えてから、札幌でアルツハイマー病の専門家のクリスティーヌ・ブライデンさんの講演があることを知り、せっかくだから出席することにした。講演会の終わりにブライデンさんが聴衆に向けて「この中で認知症の人がいたら手を挙げてください」と問いかけた。まさかと思ったが、その問いに対して彼は高々と手を挙げたのである。それを契機に病気を公表すると、励ましの手紙や講演の依頼までくるようになった。講演で聞き手のサポートで上手に話すこともできた。そして、2008年夏に日本キリスト教医科連盟総会の交流委員長に就任することになり、就任のあいさつ文では、自分が今アルツハイマー病になっていることを表明し、文章の終わりには、ローバート・ブラウン二ングのことば「老いゆけよ。我と共に! 最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手のなかにあり。神言い給う。全てを私が計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神に委ねよ。全てを見よ。しかして恐れるな!」を記した。

5)終わりをめざして

段々と体の自由も奪われていき、寝たきりの状態になっていく。2013年のある日、彼は「君はどうして信仰に入ったのか?」と問うてきた。私は咄嗟に「私はね、イエス様を見たのよ」と答えた。しばらく沈黙があってから彼は「ありがとう、ありがとう」と答えた。2021年2月10日自宅で息を引き取った。享年75歳であった。本のエピローグの中で次のように書いた。「もし人間がこの世だけの歩みで終わるなら、病気はただの不幸にすぎない。けれども、生命を与え、とり給う神様が私たちの歩みをご覧になっている。愛をもって支えていてくださる。であれば私たちは、それに応えて、たとえどんな状況におかれても、一生懸命生きる価値があるのではないだろうか。晋の死に接しても、プロローグに書いた私の考えは変わらない。彼は若年性アルツハイマー病になって、知識を、地位を、職を失った。それが世間からは、冒頭に書いたように「天国から地獄に落ちた」ように見えるだろう。だが私には、むしろ、すべてを失ったことで「あるがまま」を得て、信仰の、人生の本質に触れたように感じられるのだ。」 さらに彼自身が著書で引用した次の一節を引いて、本書を締めくくった。「蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことにある。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながら待っているのだ。」(フォレスト・カーター『リトル・トリー』より)。

なお、本書のエピローグの文章は、今年度の京都大学医学部の特色入試問題の問題Ⅳに使われた。以下のサイト(21頁より)を参照ください。

https://www.kyoto-u.ac.jp/sites/default/files/inline-files/R5_Human_Health_Sciences-1f6c17010f835f7251a91adb16a7cd85.pdf

教養講座終了後、LA賛歌を皆で歌った。

<諸報告>

①緑ヶ丘跡地への引っ越しを8月中におこない、9月から緑ヶ丘跡地の建物の使用が始まる。

②レクリエーション保険の適用について。

③2学期の学内の催しのご案内。

報告後、体操選択クラスの渡邉恭子先生のご指導で、その場で出来る生活体操で体をほぐした。

<昼食・自己紹介> 

昼食は、久しぶりに最高学部の食堂でお皿に各テーブルで盛り付けをしていただく。メニューは、エビピラフ、ツルムラサキのサラダ、ベイクドポテト、ミニトマト。キャンパス内のLAの畑で獲れたツルムラサキ3㎏、ピーマン520gを使った。

昼食をいただきながら、4月に入学した8期生6名の方の自己紹介(第3回)を伺う。

その後、自主活動の報告などがあった。

<午後の集い:家族長会主催 ボッチャ大会>

午後1時40分から、緑ヶ丘跡地の校舎2階のホールで、家族長会の方々が企画と準備をして下さった「ボッチャ大会」が行われた。家族2チームの間で対抗戦を行い、各チーム新聞紙でつくった手製のボール30球を5メートルほど離れた位置から、床の上の得点の書かれたサークルをめがけて投げ、得点(1点・2点・5点・10点)の書かれたサークル内の玉の得点を競い合った。

対抗戦を終えた後は、椅子を並べて緑ヶ丘の校舎の清掃に対する学校からのお礼として用意されたアイスクリームをいただき、その後表彰式が行われた。1位、2位、3位、ブービー賞の表彰に続いて、その他の家族にも参加賞が授与され、各チームのリーダーが感想を述べた。ボッチャを通して家族内の交流を楽しむことができた。

カテゴリー

月別アーカイブ