9月2日(土)「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 一貫教育の【自由学園】/ 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上

9月2日(土)「みんなの日」/「みんなの日」の様子 - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】

「みんなの日」の様子

9月2日(土)「みんなの日」

2023年9月15日

9月2日(土)は、夏休み中の最高学部の校舎を使って7月の「みんなの日」が行われ、午前中の教養講座は1階食堂、午後の家族ごとの集まりは1階食堂に加えて2階以上の教室を使用し、LA生122名(うちZoom参加5名)が参加した。

はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、讃美歌285番「主よ、み手もて ひかせたまえ」を賛美した。  

<「忘れられない人々」3期生・鈴木健司さん>

「みんなの日」恒例の「忘れられない人々」は、3期生の鈴木健司さんが自由学園初等部在学中にお世話になった佐藤瑞彦先生についてお話しされた。

私が初等部在学中には、初等部発足時(昭和3年)に自由学園に招聘された元岩手県師範学校教授で、付属小学校の訓導だった佐藤瑞彦先生が、主事として実質的な校長をつとめておられた。創立者のお考えを、特色ある初等部の教育に落とし込んだのが佐藤先生である。

佐藤先生の第1の思い出は、先生が担当してくださった6年生の「国語」「作文指導」。国語の宿題は「五語五文」(教育漢字を順番に、5つの漢字で熟語を、5つの漢字で短文を書く)と「工夫国語」(テーマ自由で自分で工夫した国語の勉強成果を書く)という独特のもので、B5判のわら半紙に書いて、毎日提出した。すると先生は、優秀なものには赤ペンで「天馬」(天を駆ける馬)の絵を、さらに特に優秀だと、水彩絵の具を使って「虎につばさ」を描いてくださる。そして、めったにいただけることはないが、いわば最高賞に当たる「龍、天に昇る」という絵を描いてくださることもあった。私は6年生の最後の1か月で、この3種類をいただけたことは、いまでも忘れられない。

もう一つは「創作」。初等部では作文のことを「創作」と呼んだ。週に1回提出した創作のノートは、1年間で4冊に及んだ。創作と言っても、フィクションでなく、体験や身近なテーマで、例えば弟や妹、亡くなった祖母のこと、体操会などの学校行事、自分の趣味などについてである。特によく書けている場合は「最高賞」として星に三重丸の印がつき、毎回コメントを書いてくださるのが嬉しかった。

私が最高学部を卒業して新聞社に就職し、長く新聞記者をつとめるための基礎は、佐藤先生に「工夫国語」や「創作」を見て頂いたことで養われたと感謝している。

第2の思い出は「毎朝の礼拝」での佐藤先生の聖書のお話、創立者や「子ども読本」のお話。特に旧約聖書に出てくるモーセやサムソンなどについてのお話は、絵があるわけではないのに、映画か、紙芝居のように、その場面が想像できる臨場感たっぷりのお話であった。

最後に、何か問題を起こしたり、いたずらをしたり、態度が悪かった生徒を佐藤先生は厳しく叱った。そしてその時に必ず「まわりでそれを注意しなかった人にも責任がある」「傍観者になってはいけない」と言われた。このことが私のその後の考え方に大きな影響を与えたように思う。

  • 虎に翼
  • 龍、天に昇る

<教養講座『羽仁もと子を生んだ八戸管見~安藤昌益を中心に』渡辺憲司先生>要約

今年度4回目の教養講座は、渡辺憲司先生(立教大学名誉教授・前自由学園最高学部長)に『羽仁もと子を生んだ八戸管見~安藤昌益を中心に』と題して、お話を伺った。

安藤昌益(あんどう・しょうえき)について

安藤昌益(1703~1762)は、江戸時代中期の陸奥八戸の医者で、当時の封建社会を根本から批判し、『自然真営道』を著して、万人が自ら耕作して生活する自然の世を理想とし、武士が農民から搾取する社会や身分社会を鋭く批判した。(『詳説 改訂版日本史B』山川出版社より) 以下はこの安藤昌益を中心に、八戸を巡った旅の話である。

安藤昌益を紹介した日本思想史研究家カナダ人・ハーバード・ノーマン

私の高校時代の社会科の教師は、「戦争に負け占領された日本に勇気を与えてくれたのはノーマンだ」と繰り返し言っていたことを想い出す。ノーマンは長野生まれのカナダ人の日本思想史研究家で、戦後は在日日本大使をつとめ、日本国憲法の起草にも関わった。羽仁五郎からも学んだノーマンは1949年に『忘れられた思想家 安藤昌益』(岩波新書)を著した。彼の功績を評価したカナダ政府は、大使館付属の図書館を「E・H・ノーマン図書館」と名づけた。

安藤昌益を評価し、守った京都帝国大学初代学長・狩野亭吉

昌益の『自然真営道』の稿本は、江戸時代以来、足立区千住の穀物問屋の富豪・橋本律蔵の手元にあったが、その後それを京都帝国大学の初代学長をした狩野亭吉が古書店で買い求め、その内容があまりにも革新的であることから秘蔵することになる。そして、治安維持法が強化され始めた昭和3年に、狩野は昌益についての次のような文章を書いている。

「止むことを得ずして何時でも決死の態度をとったらうと思はるる彼れ安藤は實は純粋なる平和主義の人であった。…彼の常に云う語に、我道には争いなし、吾は兵を語らず、吾は戦はず、と云うのである。…もしかの猛烈なる完本をそのまま出板したとすれば、而して世人に読まれ、多少とも影響するところがあったとすれば、其結果は知るべきで、直に彼と當時の為政者との争へとなることは、何も之を実行に訴えなくとも、考へて見ただけでも明白な事柄である」

安藤昌益の思想のエッセンス

①「転定」(テンチ):昌益は、当時の天尊地卑、上下の思想に反発した。転は〈天〉、定は〈海〉であって、宇宙を天と海との一体と考えて「人ノ上下無き所以ハ、転定・一体ナレバナリ」として、「自然の世」は昌益の平等思想の基本概念であった。昌益の後期の作品中には、男女平等を訴えたところでは、男女に「ヒト」というルビを振っていた。

②「直耕」(チョッコウ):直耕の反対語は不耕で、耕しもせず搾取して暮らしていることは自然の法律を犯しているのであると、武士、殊に領主や僧職、学者、そして聖人までを批判した。

③「人間は自然の全体なり」:自然の大きな循環の中で人間は存在しており、自然生態系への人間の破壊行為にも警鐘を鳴らした。

安藤昌益の思想誕生の背景

固定的な封建時代の江戸時代に昌益の思想はどのようにして誕生したのだろうか。

①当時の武家諸法度では、医者はまだ単なる技術者としか見られていなかった時代であった。しかし彼の思想の根幹は、医師としての立場によって築かれた。彼は哲学的思考の基本を生命を尊重する「医道」にもとめ、命はあらゆる人に等しい価値を持っているという認識を持つようになった。

②延亭元年の風水被害、延亭4年の凶作、そして寛延2年の飢饉、宝暦5年の凶作と苦しい状況を生き、多くの命を落とした農民の姿を目の当たりにして、己の絶対的な無力を覚え、その無力感の中から独自の思想が芽生えたのである。それまでの既成の思想では決して解決ができないと痛烈に感じたからであろう。

安藤昌益の故郷・秋田県大館市

昌益は56歳の頃に実家の安藤家を継ぐために、故郷であった大館に帰る。大舘は先に記した狩野亭吉の生地でもある。また終戦を目前にした昭和19年に花岡事件(花岡町:現、大舘市で強制連行で重労働を強いられ虐待で死者が相次いだ中国人たちが、蜂起するも鎮圧され裁判でも裁かれた事件)があったところでもある。昌益の墓のある温泉寺は大舘駅から車で20分ほどのところにあるが、その存在が知られるようになったのは昭和49年になってからで、ノーマンも狩野も昌益の墓を知ることはなかった。

八戸に生きた二人の後継者の交差

羽仁もと子の祖父である松岡忠隆も、昌益が医者として生きた八戸の士族であった。八戸藩の江戸勤番として深川でも過ごす一方で、当時の民権派新聞の朝野新聞の読者でもあった。

また忠隆の妻・幾よの妹の夫である源晟(みなもとあきら)は、八戸ハリスト正教会創始者で自由民権運動家でもあった。そのような家でもと子は育った。そしてもと子の娘婿がノーマンに幕末史を教えた羽仁五郎である。

一方、八戸の医師であった昌益はいつから八戸で知られるようになったのか。昌益の文章に出会った狩野亭吉は、当時の青森県立実科高等学校校長に昌益に関する調査を依頼した。校長はその後、挨拶の中で昌益について語っている。その挨拶を聞いていた生徒の一人が、当時実科高等学校在学中の永嶋暢子である。永嶋は、「嫉妬」という漢字が女偏であることに差別を感じ、在学中の試験では心(忄)偏で解答する感受性と行動力を持っていた。その後
永嶋は大正14年に『婦女新聞』に入社。その年に発行された創刊25周年記念号の寄稿者として、羽仁もと子、羽仁吉一が参加していたのであった。


渡邉憲司先生

昼食は、最高学部の食堂でお皿に各テーブルで盛り付けをしていただく。メニューは、ハヤシライス、キャベツ・水菜・ツルムラサキ・じゃこのサラダ、ミニトマト。LAの畑で収穫したピーマン1㎏、つるむらさき2.7㎏、みょうが0.6㎏を使った。
昼食をいただきながら、4月に入学した8期生6名の方の自己紹介(第4回)を伺う。
その後、自主活動の報告などがあった。

<午後の集い:家族ミーティング>

午後1時30分から、家族ごとに分かれてミーテングを行った。家族内の交流と共に今後どのような活動を行うかなどを話し合った。午後3時頃に終了。

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