9月7日(土)は、9月の「みんなの日」が行われた。午前中の教養講座は最高学部棟1階食堂、午後の家族ごとの集まりは緑が丘校舎で行われ、LA生109名(うちZoom参加2名)が参加した。
はじめに、石川リーダーの司会で礼拝が行われ、先月にお亡くなりになったLA生に黙祷を捧げてから、讃美歌285番「主よ、み手もて ひかせたまえ」を賛美した。
<「忘れられない人々」4期生・塩崎慶子さん>
「みんなの日」恒例の「忘れられない人々」は、4期生の塩崎慶子さんが学生時代学生寮でも一緒に過ごした友人の家族についてお話しされた。
私が学生時代に学生寮で4年間一緒に過ごした友人がいる。60年たった今も交流が続いている。その彼女から4年前に手紙が届き、その中に彼女の義理の両親(夫の両親)について地元のミニコミ誌に投稿した「赤紙の手紙」という文章が同封されていた。彼女の夫のお父さんは戦死され、彼はお母さんによって育てられた。送られた文章を体が震える思いで読んだ。
お母さんの遺品の中に戦地に赴いているお父さんの手紙が残っていた。
「車中にて記す。急に命令が出たため、連絡不可能なり。只今、大井川鉄橋通過。27日午前1時30分……恋しいお前の姿を思い浮かべながらペンを走らせている。列車は刻々とお前の所へ近づきつつあり。(あふれ出る妻への思いと感謝の心、そして新しい命への希望がつづられていた)」そして別紙には「これを拾った人はすみませんが、篠原村新田 那須田○○方に届けてください」とあった。東海道線近くの自分の家近くを通過するときに窓から祈る思いで手紙を投げたのだろう。そして、それを拾った人によって届けられた手紙である。お父さんは、昭和19年8月29日インドネシア・セレベス島で亡くなった。24歳。残されたお母さんは20歳。その2か月後に生まれた男の子が彼女の夫となった。
お母さんの次のような手紙も残されていた。
「貴方! なぜこんなに早く逝っておしまいなの? 後に残った私と坊やのこと思って 見知らぬ大海に放り出されて 悲しかったあの日。元気にお往きになった貴方の後ろ姿がはっきり浮かんで参ります。私も一緒にゆきたかった…… 貴方、々、々 何回お呼びしてもお答えが無く 何の張り合いもない今… 遠いみ星にいってしまっても、私の側を離れないでね、坊やをお見せしたかった、そしてお父さんと呼ばせてやりたかった……帰らぬ……?……安らかに お眠りになってネ。」
当時の人たちの悲しみが伝わってくる。二度と同じようなことが起きてはいけない!との思いを強くさせられた私にとっての、忘れられない友人一家の方たちである。
<教養講座『自由学園南遺跡と縄文時代のくらしと社会』奈良忠寿先生>要約
今年度4回目の教養講座は、奈良忠寿先生(自由学園最高学部教授)に『自由学園南遺跡と縄文時代のくらしと社会』と題して、お話を伺った。
自由学園遺跡についてー自由学園南遺跡と隣接する遺跡
自由学園南遺跡は、1935年ごろに存在が認識され、1936年に最初の発掘調査が行われた。
戦前に小規模な発掘調査が複数回行われていたが、1980年の第Ⅰ次調査以降、8次にわたる調査が行われ(うちⅥ次調査までが報告済み)、黒目川流域を代表する大規模集落と考えられる。自由学園南遺跡の、立野川をはさんだ北側には自由学園北遺跡(旧石器時代と縄文時代早期後半・前期前半を中心とする遺跡)、西側には自由学園西遺跡(中期末葉を中心とする遺跡)が存在し、3つを合わせて自由学園遺跡群と呼んでいる。
自由学園遺跡群のなかで、状況がある程度わかっているのは南遺跡であり、旧石器時代から縄文時代後期初頭までの人々の生活痕跡が見つかっている。その中でも竪穴住居が多く見つかっているのは縄文時代中期(約5415から4490年前)の中葉から後葉、勝坂式期から加曽利E式期(約5300年前から4490年前)にかけてであり、そのほかの活動痕跡は断片的である。
〔自由学園南遺跡で生活痕跡が見つかっている時期と内容〕
・旧石器時代の文化層:Ⅵ層(約2.9万年前)、Ⅳ層下部(約2.6万年前)
・縄文時代 早期後半(野島式:約8500年前、茅山式:約7500年前) 炉穴と住居跡
前期前半(関山式:約6700年前):住居跡
前期後半(諸磯式:約6000年前):住居跡
中期中葉~後葉(勝坂式・加曽利E式:約5300年前~4500年前):住居跡等
後期初頭(称名寺式:約4400年前):住居跡
縄文時代とは?
約1万6000年前から温暖化がはじまり、環境に大きな変化が訪れた。変化した環境へ適応した人類の行動が「新石器文化(新石器的適応行動)」であり、その文化(行動変容)は全世界規模で見られた。日本列島という地理的環境のなかで見られた人類の適応行動が「縄文文化」である。人類の新石器的適応行動は、定住生活・土器の使用・農耕牧畜の開始などだが、縄文文化では農耕・牧畜は基本的には見られない。また、南北に長く多様な自然環境が展開する列島の特徴に加え、約1万4000年におよぶ時間幅があることから、「縄文文化」にも様々な文化要素が認められ、かつそれらが時間経過に伴い一様に変化してきたわけでないことに近年注意が払われるようになった。栽培植物の存在や環状集落の見直しなどがその一例となる。
三内丸山遺跡をはじめとする遺跡の発掘調査や理化学的分析方法を応用した研究により、縄文時代の生活が豊かに描き出されるようになっているが、そうした「縄文時代像」が、どの時期・場所でも同じであるという思い込みは、捨てなければならない。
自由学園南遺跡の縄文人イメージ
・約5300年前から、自由学園南遺跡周辺で縄文人の居住活動が活発化した。数年~数十年(または季節で)ほかの場所に移動しては元に戻ってきて、前に使っていた住居を手直しして生活をしていた。
・約5000年前から、特定の場所での生活期間が長くなった。住居を手直しして長く生活をしていた。
・約4700年前から、数年(または季節)でほかの場所に移動し、また戻ってきていた。前の住居とは無関係に住居を建てたものも見られる。
・約4600年前から、住居跡に住んでいない期間が長くなり、居住の頻度も減少した。
そして弥生時代以降は、生活の変化からしばらく訪れることはなかった。
自由学園南遺跡と周辺の遺跡―縄文時代中期の生活と社会のなかでの自由学園南遺跡の位置づけ
自由学園南遺跡で竪穴住居跡が多く見つかっている縄文時代中期中葉から後葉にかけては、関東・中部地方にかけて自由学園南遺跡と同様の遺跡が多く見つかっている。自由学園遺跡が立地する武蔵野台地内に限っても、竪穴住居跡が100軒を超え、遺跡が営まれた時間幅も数百年にわたると予想される遺跡(大規模集落)は複数あり、河川にそって4~5㎞ほどの間隔で存在している。そしてその周辺には、住居軒数も多くなく、生活が営まれた期間も断続的、あるいは比較的短期間である遺跡、住居跡がみつからない遺跡(総称して小規模遺跡とする)が複数存在する。これらの遺跡が相互に関係性をもっていた。
竪穴住居跡が多く見つかり大規模とされる遺跡も、時間幅を短くして見ていくと小規模遺跡との違いは目立たなくなる。自由学園南遺跡を例にして考えると、同時に人が生活していた竪穴住居は数軒程度であり、しっかりした造りの竪穴住居を建てる時代、比較的簡素な構造の竪穴住居を建てる時代が存在する。そして、移動性が高く、より広範囲に分散して生活していた時代、比較的長く同じ場所で生活していた時代、その中間的な生活(同じ場所への回帰性が高く、頻度も短い)をしていた時代が展開する。縄文時代の生活の道具である縄文土器の大きさも、竪穴住居跡の変化や集落の変化とあわせ、変化する。
まとめ
自由学園南遺跡を糸口として、縄文時代に関して説明した。縄文時代中期以降、とくに社会の複雑化が進むが、その点については自由学園南遺跡の資料からは十分にうかがい知ることができない。今回説明した縄文時代像もあくまで「5300年前から4400年前ごろの間の、自由学園南遺跡を中心として描かれた縄文時代像」であり、時代や地域が異なればまた違った縄文時代像が描かれる。そして、「繁栄と衰退」として捉えられてきた縄文時代中期の住居数の増加と減少は、空間的には「モザイク状」、時系列では「振り子」ではないか。また縄文時代の生活の変化も、日本全体の国家の歴史という視点では、評価しきれない。
教養講座終了後、LA賛歌を皆で歌った。
<諸報告>
- LA祭について
- バザーの開催について
- JIYU1123のお知らせ
- 10/20(日)チャリテイコンサートのお知らせ
- 台風・大雨の際に選択クラスを中止する場合はメール連絡あり。中止しない場合でも、最近の豪雨は局所的なこともあるので、各自で欠席するかの判断をお願いしたい。
午前の部終了後、最高学部食堂の外に出て、LAスタッフを中心に生活体操をした。
<昼食・自己紹介>
昼食は、最高学部の食堂でお皿に各テーブルで盛り付けをしていただく。メニューは、
ハヤシライス、福神漬け、キャベツと水菜とじゃこのサラダ、ベイクドかぼちゃ。
LAの畑で収穫したつるむらさき・みょうが・ピーマンはサラダに、かぼちゃはベイクドかぼちゃに入りました。
昼食中に、10月20日(日)のチャリティーコンサート(於自由学園記念講堂)の報告をするために来られた、NPO法人日本視神経脊椎炎患者会理事長のソプラノ歌手・坂井田真実子さんが2曲独唱して下さった。
<午後の集い:家族ミーティング>
午後1時30分から、場所を緑が丘校舎に移して、家族ごとに分かれてミーティングを行った。家族内の交流と共に今後どのような活動を行うかなどを話し合った。午後3時頃には終了。