新刊『子ども白書2022』高野慎太郎教諭の論文と養老孟司氏との鼎談が掲載されました/メディア:書籍 - 一貫教育の【自由学園】/ 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上

新刊『子ども白書2022』高野慎太郎教諭の論文と養老孟司氏との鼎談が掲載されました/メディア:書籍 - 幼稚園・小学校・中学・高校・大学部・45歳以上【一貫教育の自由学園】

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新刊『子ども白書2022』高野慎太郎教諭の論文と養老孟司氏との鼎談が掲載されました

2022年7月9日

『子ども白書』(日本子どもを守る会 編)は、1964年から刊行されている教育誌です。「子どもの権利」を基調として、教育界の議論をリードする論考が数多く掲載されてきました。

7月発売の新刊『子ども白書2022』の特集は「オンラインで変わる子ども世界」。自由学園女子部(中・高等科)教諭の高野慎太郎が編集委員を務めており、論文執筆をはじめ、編集に携わりました。
特集の中ではオンラインによる影響について、養老孟司氏(解剖学者)へのインタビューが成田弘子氏(白梅学園大学元特任教授)と高野教諭により行われました。
また『子ども白書2022』の編集には、高野教諭が顧問を務めている自由学園の「多様性ゼミ」のメンバー(女子部生・最高学部生・卒業生)も携わり、若者チームの座談会にも参加しています。

■『子ども白書2022』日本子どもを守る会 編
2022年7月 かもがわ出版発行
かもがわ出版HP http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/1232.html

■目次等詳細
かもがわ出版 noteで目次が紹介されています。
https://note.com/kamogawa_syuppan/n/n4cd82e3d96b2

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■高野慎太郎教諭の論文タイトル
「ポスト・ヒューマニズムの時代のオンライン教育」
~別様なる可能性への生成変化に向けて~

特集企画のなかに位置付いており、ポスト・ヒューマニズムという視点から教育学・教育実践への再考を促すものです。

■養老孟司氏へのインタビューでの高野教諭の発言(抜粋)
「オンライン時代を生きる子どもたちへ」
と題されたインタビューでは、オンライン時代に生じる世界体験の変容について、スリリングな議論がなされています。
以下に、高野教諭の発言を抜粋してご紹介します。養老孟司氏の刺激的な応答を含めた全体は、ぜひ『子ども白書』を手に取ってご覧ください。
*内容の一部は、かもがわ出版のnoteでも紹介されています。
https://note.com/kamogawa_syuppan/n/n5e86a409f80a

高野:子どもたちと話していると、音楽や映 画に限らず、「好きなもの」との出会い方が変 わってきたように感じます。これまでは、試 行錯誤や友人からの紹介といった「出会いの 物語」がありました。でも最近は、アプリの レコメンド(おすすめ)表示に従っているだ け。何かを好きになるという世界体験の質が 変わってきているように感じます。

高野:いまとは別の環境という意味では社会の外、つまり自然や遊びのような時空は貴重だと思います。ただ僕もよく娘を連れて森の公園に行くのですが、雲梯の上に登って遊ぶ子がいると、そこにいる親も子どもも「雲梯の 上は登っちゃダメな場所だよ」と注意するん ですね。「落ちると危ないから」ならまだわ からなくもないですが、「規則だからダメ」 というのは「ここは学校かよ」って突っ込み たくなります。社会の外の環境も学校化して しまっている。

高野:刃物で人を刺そうとするのは、刃物を 使ったことがない人の発想だと書いておられ ましたね。身体感覚が欠如した結果だと。

高野:2X = 6 という計算の答えはX=3だけど、でも、Xと3は別物だ ろうと。

高野:養老さんはモンテッソーリ教育に関 わっておられました。モンテッソーリは、理 性に対して感覚を尊重すべきだとします。世界からの呼びかけに応答できる構えを育てる ために、幼児期の感覚教育を大事にしていますよね。

高野:他方で、冒頭でお話ししたレコメンド 表示への反応も、学生の主観からみれば「呼 びかけ」に「応答」したことになります。こ のあたりの世界体験は似ているけど違う。一 番の違いは何だと思われますか。

高野:最適解に直結しすぎているというか、 合理的すぎる点に問題があるわけですね。試行錯誤の余白のようなものは重要で、そうし た選択や行動の可変性がなくなると、そもそも生きる意味自体が失われてしまいます。

高野:『唯脳論』をはじめとする初期のご著書には、我々が知覚する認識のすべては脳が処理した世界であるという考えが明確に示さ れています。そうした意味では、我々は生涯 にわたって続く VR を見ているようなものですね。

高野:メタバース(仮想空間)をどう捉えるかという話題をお伺いしたいのですが、まず 「現実」という言葉についてご確認です。ご著書では、「現実とは、出力に関係してくる入力である」と定義されておられましたね。

高野:そうした意味論を含めた入力が「現実」 ということですね。巷では仮想空間の話題が 花盛りです。このままいけば、おそらく入力 も出力も仮想空間で行われるような状況も生 じると考えられます。そうなると、当たり前ですが、我々の生や実存を支える基盤が変わってきます。もしも、理想的な仮想世界に脳をつなげて、仮想世界だけで生きていけるとしたら、それでいいのか。ロバート・ノー ジックが投げかけた哲学的な問題が現実に問われてい ます。つい先日、メタバースに関わる組織の理事長に就任された養老さんは、こうした問 題について「それでいい」とお考えでしょう か。

高野:VR の福祉・医療的な意義について、 おっしゃる通りと思います。一方で、より多 くの人々にとっては、可変性のある実体世界 に参画することよりも、ファイン・チューニ ングされた仮想世界でまったり生きるほうが 魅力的に感じられるのではないかとも危惧します。そうなると、まさに脳死問題と同じように「何が人間的な生なのか」という線引きに関わる議論となるわけですが、そのあたり についてはどうお考えですか。

高野:「それが何か問題でも?」となる。

高野:歴史的にも、価値観の変化の始点には技術がありますね。鉄道が敷かれたことで 「時間厳守」の価値観が生まれたり、体重計の普及で「減量」という行為が始まって、「摂 食障害」の症状が広がったりしてきました。 技術が先行し人倫が後追いするという流れが あるわけですが、現在も資本主義と結びつい た技術革新がもたらした人間拡張や仮想世界 の技術が先行しています。価値観はもはや後 追いするほかないという状況のように見えるわけですが、こうした状況は何か喜ぶべきことなのでしょうか。

高野:自然科学の発想では、確かにそうなりますね。物事に良し悪しはない、つまり価値自由の議論です。一方で、これまで養老さんは自然や 身体といった視点から社会の都市化を批判的 に論じるような、価値観を伴ったお仕事をされてこられました。そうした意味では、技術 のなりゆきを見守るというお立場は少し意外な感じを受けるのですが、いかがでしょうか。

高野:VR だからこそ見ることができる世界 がありますね。「ポスト・ヒューマニズム」 と呼ばれる議論がありますが、人文系の議論 では、これまでの人間が持っていた人間中心 の視点が問題視されます。克服に向けては木や川や動物といったアニミズムの視点がカギ となってきますが、GoPro(小型カメラ)や VR を使うことで、そうした視点を実際にとることができます。我々の視点を豊かにする方向で技術を活用することができますね。
養老:あまり老人に難しいことを考えさせないでください(笑)

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